スープの唄を聴かせて

おいしいスープに勝るものなし

やかんは放っておくと、命令するように歌って口笛を吹く。「いい加減にお茶を入れてくれ!」、と。
スープはゆっくり時間をかけるときには、鼻歌を歌うようにコトコトと煮えて、熱くなりすぎると泡立ってグツグツと煮える。スープの命令形は、「できたよ!みんな食卓に集まって!」、だ。スープが仕上がるタイミングは料理人が決める。スープの味の秘訣を料理人は大概隠しているものだ。特別な何かを。当然だ。料理は材料の合計以上の何かを、当然秘めているものだから。
スープは独り言を言う!優秀な料理人は直感的に知っているのだ。言葉では言い尽くせないことを料理は伝えることができると。ドイツ語では美味しい料理の力で誰かを「煮詰める」(口説き落とす)ことができる、と言う。つまり、反対していた事柄を納得させることができるということだ。

スープを飲むことは古めかしくもあり、且つ見慣れた人間の共同生活のイメージを想起させる。期せずして、温かさと情緒の集合体が立ち上ってくる。やかんとスープを結びつけてみよう。そうすると、なんとも今日的なイメージができてくる:「シュー!」お湯が、「バリ、カシャン!」と器に入れられたインスタントスープに降り注ぐ。ストレスがかかった現代人、すぐに何かお腹に入れたいおそらくシングルの人だろうか。(ドイツで食されているスープの半分は出来合いの製品だ。ホントニベンリですから、、)

スープは記憶を呼び起こす。病気の時のスープは、得体の知れないドロドロで、飲まずには済まされない。「身体にいいよ!」と耳の中へ声が響いてくる。あるいは、ベーコンとパンの団子が入ったみすぼらしいコンソメスープ、、子供の私にとっては、できるだけ早く平らげなければならないものだった。そうしないと他のものを食べさせてもらえなかったから。スープは、美味しそうな料理、とりわけ甘いアップル・シュトゥルーデルに向かって食事を進める私の前に立ちはだかる障害だった。父の方からは、古びた(しかし面白い)絵本の『もじゃもじゃペーター』に出てくる「スープのカスパー」の暗いメロディーが聞こえてきた。若くて元気な若者が、ガリガリに痩せてゆく話だ。カスパーは4日間、「僕はスープなんか飲まない!スープなんか飲まないよ!」と拒み続け、5日目には墓に横たわっていた。自分の意思で餓死する子供なんているかしら、とこの物語は嘘くさいと思っていたが、それでも素晴らしくゾッとする話だった。それは、父と諍いなく過ごすためのずる賢い法則でもあった。

「パスタスープの中を泳いできたのね、、、!」と学校時代には、物分かりの悪い子に向かって言ったものだ。アジアの麺が入ったスープに比べると、オーストリアのパスタスープはパッとしないが、それはいた仕方ない。ウィーンの国立図書館の食堂には、面白くもないパスタのアルファベットスープがあった。本を読んだ後で、スープでも読書ができるということらしい、、。食事の時は口で読む。口は「読書器官」になる、と映画監督であり、「料理の先生」である P. クベルカは言っている。

私の味覚は次第に発達して、郷土料理のスープ皿の端の向こう側を見るようになってからは、私はスープの友達になった。スープは「セクシー」なものになった。最初はフランスのオニオンスープ、それから魚スープ、チーズの入ったワインスープ、栃の実のスープ、ボルシチ、、全てが料理への開眼となった。しばらくするとお腹に優しいオートミールスープにすら感動を覚えるようになった。私はスープ大好き人間だ。

元々西洋で前菜として食されていたスープが、現代ではメインディシュへと格上げされて人気を博すようになったのは、アジアの蕎麦、うどんそしてとりわけラーメンが国際的に広まったおかげである。最近ではベトナムのフォーも人気だ。これらの麺料理は、ドリンクも含む(!)オールインクルーシブな食事の代表だ:麺、もち、野菜、海藻、魚介類あるいは肉、香味野菜等などが入っていて、揚げ物が入っていることもある。(もしかしたら、そのうちウィーン子たちは揚げたシュニッツェルをトッピングするようになるかもしれない、、)そして、汁、長時間煮出した出汁を飲む。これ以上のものがあるだろうか。固形物、液体、なま物、そして揚げ物までも。それが美味しそうな盛り付けで出てくるのだ。本当にカッコイイ!そして食器はどんぶりと箸だけ。

道具といえば:「スープ」はドイツ語では元々「スプーンで食べる食事」あるいは、「煮出汁」という意味だ。昔の食事は主に穀類の粥、多かれ少なかれ液状のものだった。中世の時代でもまだスプーンの所有は自明のことではなかった。貧しい、あちこちを渡り歩いている人々や学生達は木製のスプーンを持っていて、それを帽子に挿して、それに椀状の器を持ち歩いていた。彼らは、「修道院のスープ」や「貧民のスープ」のお世話になっていた。18世紀になると公の「スープ施設」ができた。スープの材料は小麦粉、少しのラード、黒豆、レンズ豆あるいは牛乳だった。肉や魚が入ることはほとんどなかった。後になるとそこにジャガイモが使われた。(ヨーロッパではジャガイモは比較的新しい食べ物だ) 
スープ:基本的で日常的な食べ物は食事と同義語にもなった。労働者達は「朝のスープ」「昼のスープ」そして「夜のスープ」に呼ばれた。「四六時中スープだ!」

だからスープが出てくる多くの言い回しがあるのも不思議ではない:「誰かのスープに塩を入れる」 や「スープに唾をかける」という言い回しは、誰かの計画を台無しにする、あるいは誰かを怒らせるとう意味だ。薄いスープは中身がないこと。エゴイストや他の人に協力的でない人は、「自分のスープを作る人」。「台無しにしたスープは自分で平らげろ」というのは、自分が招いた禍は自分で始末しろ、という意味。

注目したいのは、最近の社会芸術的なスープ・インターアクションという形のスープ文化のルネサンスだ。社会が極度に不安にさらされ、怒り、そして分断されている、幾重にも起こった危機のショックという私たちの現在において、共通の理解も社会的な意見の統合も不可能に思える状況の中で、贈与経済(マルセル・ガウス『贈与』1923/24)という小さな試みが点となってあちこちで出てきている。それはスープの耳慣れたメッセージと同じ響きがする。「温まって、他の人たちと一緒にいなさい」。2023年のはじめにボンのアップデート・ギャラリーにて一人のアーティストが自分の彫刻を展示する代わりに、「金持ちとシャンペンは外へ、貧乏人とスープは中へ」というイベントを行った。普通なら金持ちが高額な絵を買う、まさにその場所で。この小さな枠組みの中で、彼は世界の二極化を表現しようとしたのだ。こちらではシャンパンを飲んでいる人たちがいて、あちらでは、せいぜいスープしか口にできない人たちがいる。それは、2023年の冬に芸術家集団YRD.Worksがオッフェンバッハの市庁舎広場のパビリオンで企画したプロジェクト「スープ」へと発展していった。来場者たちの共同体意識を高めるために、全ての人のためのスープが提供された。「スープ、鍋、みんなで焚き火に集まることが、再び肘鉄ではなくエンパシーを目指す共同体の象徴となった。」

2008年には、「2008年のスープ」がスタートした。366日間、巨大なスープ鍋がヨーロッパ13カ国を巡り、最後にウィーン図書館へ到着した。巡った各地ではその土地のスープをみんなで料理して、無料で配布した。半リットルは残して、次の国へ持ってゆくのが決まりだった。そして、その残りは次のスープに混ぜられた。それは異文化間の歓迎のマニフェストとして構想された。最後の残りは、スープがさらに先へ流れてゆく象徴としてドナウ川に流された。

スープ:最も基本的な食事(お腹から湧き出る直感、心が温まる)、食事の世界における万能な天才、複合液体、重層的な味(比類なき味の爆発)、一度に飲み食いできるもの、肉、魚介類から野菜、香草、香辛料、穀類など、それから柑橘類などの果物、りんご、なしなど、あらゆる食材を入れることができるもの。どんな食材でもスープになることができる。でもちょっと待って!それには節度と知識が必要。コンソメの透明さ、見た目には何も具材が入っていないが魅力的なもの。無骨な具材(骨、肉、根菜、魚など)からどうやってこのように純粋で、しかし風味豊かな出汁ができるのだろう。
そのためには素材についての知識、良い素材を手に入れる方法、素材の扱いの知識が必要だ。調理のプロセスには幾多の手仕事がついてくる。
料理には、馴染んだ味覚を離れて世界に対しての好奇心と開かれた心が必要となる。というのも、新しい味覚の創造は他者からのインスピレーションに他ならないのだから。
料理には素材と食べる人へのリスペクトが必要となる。
料理にはエンパシー、そして、創造への献身が必要だ。料理人はスープと共に歩まなければならない。

スープには今何が必要だろうか、何を入れれば良いだろうか、、料理人の心は、スープと共になければならない。料理人とスープは料理のプロセスの中で互いに作用し合う。
そして、料理には完全な今が必要である。さまざまなプロセスを追う研ぎ澄まされた注意力と集中力が。「できた!」という瞬間までのハンティングとジャグリング。
世界がどのようにしてできたのか、私たちは知らない。(源スープ理論、1953年ミラー、は現在では間違っていることが実証されている)。世界の中心に何があるのか、私たちは本当には知らない。それでも個々のものが、そして多くの物が含有しているものを知ることはできる。食べられるように作られた世界の統合:それがスープだ!

Karin Ruprechter-Prenn 
日本語訳:真道 杉

 

 

新陳代謝についての詩

食事とファッションと聞いて、その2つにどのような関係を思い描くだろうか。おそらく真っ先に浮かぶのは、理想の美しさを追求するあまり痩せすぎた女性達や、栄養失調のモデル達のイメージかもしれない。しかし、ファッションを全体的なシステムとしてではなく、衣服そのものの文脈で捉えると、全く異なる題材同士の関係性や結びつきが浮かび上がってくる。エドウィナ・ホールは今回の “スープ” というコレクションで、変容していく過程で身体の内と外がどう影響し合うのか、内側と外側の新陳代謝、その関係性をテーマとして扱う。内部と外部がそれぞれに変わりゆくこと、つまり化学的・有機的な身体内部の変化の過程と、デザイン的・芸術的な身体外部の変化の過程との間には、どのような繋がりがあるのか。身体は内と外の両方から整えられ形づくられる。食と衣の接点として、エドウィナ・ホールはスープをメタファーに用いる。生命をつなぐものと美を備えたもの、それぞれの要素が相互に作用し、組み合わされることではじめて、香り高い栄養満点のスープは生まれる。

中心に身体があり、その内部・外部の世界に影響を及ぼす。エドウィナ・ホールは、食と衣、個々の素材がそれぞれ相互に影響し合うことで生じる身体の内と外における変化の過程を作品に表わそうとする。彼女は “リセット・クチュール” として、過去のさまざまなコレクションからサンプルを選び、文脈を一新した一着を作り上げる。素材、裁断方法、そして機能をクロスオーバーさせながらベースとなったサンプルは形を変えていき、その過程で衣服本来の使用範囲は拡張される。そうして、環境に優しい、リサイクルを旗印にした新しいデザインが生まれるのだ。過去のコレクション “S・A・N・A・E” の ”harubarutei” Tシャツシリーズで、エドウィナ・ホールはファッションと料理の世界を融合させた。東京・経堂の伝説的なラーメン屋店主であった亡き夫・早苗を偲び、彼が生み出したラーメンのスープや料理を復活させると共に、この場所で紡がれる物語に耳を傾けようとしている。その物語とは、店を訪れる人々とのパフォーマティブなコミュニケーションによって生まれる調理の過程であり、個々の食材が織りなすストーリーでもある。それぞれの食材・料理それ自体・調理法・料理の見た目からは、ファッションにおける衣服それ自体・サンプル・裁断・デザインと同じように、その創造と生産のプロセスが文化や時代、社会や政治によって形づくられてきたこと、そして、それぞれの歴史を紡いできた人々の存在が思い浮かぶ。料理とファッションどちらの分野でも、素材を選んで組み合わせること、そこに日常的・社会的な現象を反映させること、時代を読むこと、変わり続けること、それら全てが大きな役割を果たす。新陳代謝とは、有機的・創造的に変化し続けることなのだ。

気候変動や環境破壊の問題に直面し、分解可能な製品、リサイクル、循環型経済、そして何より脱成長をベースにした社会への変容が求められている。そういった変化は、それぞれの製品の耐久性や価値を上げることにつながり、製品をより長く楽しめることにつながる。その結果、天然資源、労働資源、エネルギー資源の節約になり、環境破壊をともなう製造工程を基盤にし、短期的な消費サイクルを目的に生産されるファストファッションやファストフードの流れを断つことができる。変化とは、意識のレベル、肉体のレベル、どちらにおいても起こるものであり、このふたつの領域を切り離すことはできない。脱成長運動を考える上で、世界には既に十分な数の製品が存在すると仮定するならば、そういった既にあるものをどう活かすのか、押しつけられた成長神話から脱却し、いかにリサイクルや環境に優しい製品を当たり前のものにしていくかが重要となる。急激な成長や、目先の利益、速い消費サイクルが、社会的、政治的、あるいは個人的な目標として喧伝されなくなって初めて、経済優位の政治体制から距離を置くことができるだろう。そして、生産された物の量や数を見るのではなく、人間も含めたあらゆる要素の相互作用を、生きていくための循環の基盤と捉えられるようになれば、ものの見え方や行為自体も変わり始めるだろう。

スープに含まれる栄養素は身体に必要な様々な要素を凝縮したもので、新陳代謝の機能を最適な状態に保ち、身体器官の生育を促し、健康を維持し、免疫システムを保護する、そして何より、私たちに幸福と喜びをもたらすものである。生態学的なプロセスの模範となるような自然本来のプロセスは、一方では社会的なプロセスと切り離せないものである。何を食べるかの選択が身体を内側から規定するように、衣服は身体を外側から規定し保護するものである。個々の構成要素や行為主体の相互作用・相互依存は、循環システムの一部であり、私たちはまずその中に自分の道を見つけなければならない。

Sabine Winkler
翻訳:小沢さかえ

 

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