ママン、マンマ、マメ、エメマア、エム、ウム、アナ、モム、マエ、スマミ、母、、、

「私は今になって更に感じるのだ、私を見つめてくれた目を私に話しかけてきた声を全てを柔和に包んでくれた腕を。それを「マム」と呼んでいたことを私は覚えている。」
(A.シュティフター, 1866)

生まれて間もない「シュティフター赤ちゃん」は、落ち着いたようだ。さて、この「マム」は子守の女性だったのか、実の母親だったのか、もしかしたら男性だったのか。肝要なのは「柔和になった状態」、別の言葉にすれば、母性だ。一度生まれてきてしまったからには、母胎に戻ることはできない。全てを包み込む守られた場所、その場所の代わりになるものや、最も私的な領域を私たちはもしかしたら生きている間中希求し続けているのかもしれない。
生まれる前に母胎にいた、この謎に満ちた時期がどうだったのか、シュティフターの記憶を見てみよう。
「遥か昔の何もない無の中では至福と恍惚のようなもので満たされていた。何かに激しく掴まれ、殺されるかと思うほどの勢いで私の存在の中に押し寄せてきた。それは後の人生では比較になるものがない程であった。(...)それは輝きであり、感情でありそれは下にあった。
それはごく幼いときのことであったにちがいない。その周りは、私には全てが高く遠く無の暗闇に包まれているように見えた。それから何か変化があった、(...)
音が聞こえてきた。(...)それから私ははためいている物の中であちこち浮遊して(...)そして飲み込まれたようだった(...)。」
19世紀のオーストリア人作家シュティフターは、1866年、彼の晩年の自伝の草稿にこう書いている。子宮のイメージを、詩的に手探りするような繊細な手法で描き出そうとしているが、それは独特な緊密さをもって響いてくる。

一つの普遍概念
「この惑星にいるすべての人間は女性から生まれてきている。」
アドリエンヌ・リッチが1976年に書いた言葉だ。「反論の余地なくすべての女性と男性が分け合っている唯一の経験は、私たちが成長するために、ひとりの女性の胎内で何ヶ月か過ごした経験である。」
「ママたち」と特に地球の南にいるすでに母になっている女の子たちがいなければ、地球という惑星は存続するだろうが、その惑星の(人非)人間世界は存在していないだろう。貧困・発展支援をする国際NGOオックスファムの計算では、未成年者を含む世界中の女性が担う介護や世話の仕事を年間で支払ったとしたら、その総額は超富裕層が毎年生み出す資産をはるかに上回る。しかも、最低賃金で試算してこの結果である。この仕事は経済の統計には挙げられていない。家庭内や他の共同体における家事や介護や扶助は生産性がないものと考えられている。パートタイムで働くワーキングマザーの多くにも貧困のリスクがついて回る。つまり、ジェンダーの賃金格差と母親の賃金格差である。「公共の福利のためにもっと予算を!」というのであれば、まさに女性が担うケア・ワークにこそ高額の報酬が支払われるべきである。残念ながらこの仕事は大抵の場合、そのようには認識されていない。
20世紀におけ女性の自立と母親の役割に関する認識のマイルストーンはいくつも置かれている:シモーヌ・ド・ボーヴォアールは女性の生殖能力から生まれる拘束性を社会的な抑圧の原因と捉えた。「女性の隷属」と母親生活の現実はファクトとして彼女の発見を証明した。1949年、歴史哲学的な書物"Le Deuzieme Sexe" (『第2の性』第2の、つまり下位の性!)が出版され、1951年にはそれがドイツ語で「もう一つの性 事実と神話」というタイトルで翻訳された。衝撃的な表現だが、このメッセージは今日なお有効である。子供はつまり「男女平等キラー」である。(ボーヴォアールは一貫して子供は産まず、しかし若い友人を娘として養子に迎えた)振り返ってみれば、彼女はジェンダー・スタディの基礎を築いている。幾度となく引用されている文章:「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。それならば、「人はママとして生まれるのではない、ママになるのだ」とも言えるだろうか?
その25年後に前述したフェミニストで3人の子供の母であるA. リッチは「生まれながらに女、経験と組織としての母」と書いたが、つまりそれは、母には「歴史」と「イデオロギー」があるということである。母は自明で自然な建物のない「組織」と同じと見られており、母は家庭の仕組みと実際において、とりわけ今なお伝承されている母親像を再生している多くの頭の中で、同時にあらゆるところに存在している。イデオロギーによる母親の道具化の典型例は、ナチ時代に見つけることができる。その時代には神格化された欺瞞の母親カルト(女は自分が「自然」に属する場所である台所にいて、子沢山の母には母親勲章)が支配していた。あるいは一方では1979年から2015年の中国では一人っ子政策によって子沢山の母親は弾圧された。

母親であることとそこから出てくる母性は、私たちが今日思うほどすぐに結びついて連想されるものではない。過去の世紀を振り返れば、実際には両者は全く結びついていなかった。「母の愛」(L'Amour en plus, 1980)の中でエリザベート・バディンターは、この「自然」な本能と呼ばれるものを多くの歴史的な事例を用いて神話だと暴いた。なぜなら、一つのシステムの中の文化的な価値は、社会的な要求と政治的な必要に応じて変化し、新たに作られるものだからである。裕福な女性たちは自分たちの子供の世話はせず、子供たちは乳母や教育係の手に渡されていた。子供のいない親戚に譲渡されることもあった。今日では想像もできない程の子供に対する無関心さ、さらに残酷さは普通のことだった。子供の価値は後継者としてあるいは労働力として、両親にとっての利用価値によって決まっていた。J.J.ルソーの『エーミール または教育について』(1762)の中で初めて自然法則的であり、且つ社会に向かう成長が中心に置かれた。子供時代は保護されるべき時期として、そして母親はここで「ビックママ」、献身的で偉大なる母の原型、公的な場所から離れた(おそらく男によって作られた)家庭の中で発揮される理想を体現するものなった。子供を生む存在(子宮)、育てる存在(乳)、保護者として。そこでは「黒い」権力の行使もあったであろう。しかしそれも社会的に存在しないことの代償であった。矛盾を孕んだルソーの思想は大きな成功と影響を獲得した。そして彼の思想の影響は今日なお見ることができる。(ちなみに、ルソーは恋人と5人の子供をもうけたが、みな乳飲児の時に国立の孤児院に預けられ、その後の記録は何も残っていない。なにせ、彼は執筆で忙しかったのだから!「国ママ」?誰が喜んで世話になろうと思うでしょう?)

母親であることと母性の違いは、ジェンダー論的にいえば、生物学的性別とジェンダーの違いだ。妊娠と母親であることは「まだ」(というのも生殖医療は進歩しているので)生物学的な「女」と結びついている。しかし母性という能力は性別に関わりのない社会的な特性であって、母親と簡単に関連づけることができない。母性的な男、ママとしての男は社会的に認知されてきており、珍しい特異なものではなくなってきている。そしてホモセクシャルな男性カップルの社会的なママも生物学的な母を「借りる」ことで可能になった。倫理的な論争になった代理母、、あるいはかつて女で今は男だが、まだ女性器を持っていて母になるなど。
流動的な性別とアイデンティティの多様さ(LGBTQIA+は50以上の性別を区別している)による新しい不透明さは、バイオテクノロジーの可能性とますます盛んになっている生殖産業と呼応している。規範は揺らぎ、常に争いを孕んだ家族構成を新たにシャッフルすることは、もしかしたら生産的なことなのかもしれない。家族の舞台は独特なもので、ハッピーエンドで終わるコメディのシナリオにはなりにくいようにできているようだから、、、

ママエスクな日常のリアリティ:「母の良心の咎め」、同一尺度では測れない諸々を扱っていることをわかっていながらも、すべてをうまくまとめようとすること:母としての自分と母でない自分を持っている人は、子供が生まれると同時にジレンマに陥る。レイチェル・カスクの著書「ある人生の仕事」(2001年、ドイツ語版 "Lebenswerk"「ライフワーク」)の一節:「(...)この出産の後、彼女の意識の中の外からの影響を受ける分野で子供は生き続けた。子供がいるとき、彼女は自分自身でいることができない。それと同じくらい子供がいない時も自分でいることができない。そして自分の子供たちを置き去りにすることは、そばにいることと同じくらい大変だった。それに気づくと、不治の病のように葛藤に縛り付けられてしまった、あるいは神話の罠にかかってしまったような感情が湧き上がってきた。」

一度ママになったらずっとママ、、、子供と大事な仕事の間で引き裂かれる。まあまあなママ、ドイツ語では「ソ・ラ・ラ・ママ」つまり平均的なママになろうと思えば、楽になるだろうか?

現代ママ・ミニ百科:
ヘリコプター・ママ (Helikopter-Mama):子供の上空をブンブン言いながら常に旋回している。インスタグラムやフェイスブックもチェックする。学校やミュージカルの稽古、乗馬学校、太鼓のグループ等々の送迎タクシー役もする。いつかチビたちは脱走に成功するだろうか。
ラテ・マキャート・ママ(Late-Macchiato-Mama)あるいはオシャレママ:自分と同類のママ友と一緒に、子供にも優しいスタイリッシュなカフェに座ってモーニングを食べ、オーツ麦ミルクかソイミルク・ラテをすすっている。隣にはもちろん最高級のベビーカー。
マッピ (Mappi): ママとパパの一人二役、シングルマザー。常にストレス満載だが、愛情満点。冷凍ピザとレトルトスープ、、、ああ幸せ。
タイガーママ (Tiger-Mama): アジアで有名。子供たちは最初から成績トップにならなければならない。そのための指南書もある。
戦闘ママ (Kampfmama): どんな状況でも子供を盾で守る。たとえ自分の子供が悪さをしたことが明らかな場合でも。そしてどんな小さな批判に対しても反撃に出る。
クロコダイルママ (Krokodil-Mama):子供に全てを与えなければならないと思っている。息が詰まる。その代償として子供から全てを受け取ろうとすることは明らか。飲み込まれる危険あり。
ガイア (GAIA)あるいは大地の母:骨の髄までエコ・フリーク。田舎暮らしの傾向がある。カオスを良しとし、子供たちは泥んこになって遊ぶのが良いと思っている。大声を出すのもOK。クリエイティブに自由にと考えている。
親友ママ (Beste-Freundin-Mama) : ママと娘のペアルック、洋服の貸し借りは普通。娘の姉に間違えられると喜ぶ。娘と同じカフェや同じ音楽を好む。
鬼母 (Rabenmutter):かつてはネガティブなイメージで語られていたが、今では支持され、称賛されている。「夫が、、、、すべきでしょう。」
継母(Stiefmama) :メルヘンの世界を見れば一目瞭然の名だたる悪人。しかし現代では悪役を脱却している。パッチワークファミリーやその他の家族形態をご覧あれ。

Karin Ruprechter-Prenn   
訳:真道 杉
 

 

 

心の中の母たちあるいは火の光を高く高く舞い上がらせる女

母性と聞いて、何を連想するだろうか。良い母親や悪い母親のあらゆるイメージが瞬時に溢れ出し、数々の思い出や願望、幸せな気持ちを語りたくなったり、あるいは過干渉や過保護、受けてきた期待による重圧を思い出すことが、恐怖の引き金になる場合もあるかもしれない。日常生活の中にある、一見普通に思える異常さは、理想と現実を行き来しながら、いつものように続いていく。
母親像やその役割は、時代とともにどう変化してきたのだろうか。20世紀に入るまでの母性崇拝の高まりは、しばしば女性を生物学上の性へ還元することに基づいていた。女性の社会進出の可能性が出てきたことで、母親という役割に代わる選択肢が生まれるのだが、これは、男女共同参画社会の実現を模索する社会的なプロセスと密接に結びつくものであり、伝統的な家族観や旧態依然とした道徳観念への問題提起が同時になされた。男女共同参画社会が完全に実現されているとは言い難いものの、女性たちが声を上げ続けた結果、母親の役割のイメージとそれに伴う実情は大きく変化した。女性を解放するための過程で、自分のことは自分で決めるというごく当たり前の前提によって、それまで労働の現実との折り合いが難しかった、母性をめぐる社会構造に変化が現れた。経口避妊薬の発明や人工中絶の合法化から、今日のクィアな家族構造における”役割”の考え方、最新のバイオテクノロジーによる新たな可能性といったものまで、あらゆる側面で、母親であるということが生物学的な帰属や制約から解放された一方で、母親の役割はいまだ社会的な期待や規範の影響下から抜け出せてはいない。たとえばシングルマザーである場合など、再生産労働と生産労働に同時に従事せねばならぬという社会的状況が、母親であることと自身のキャリアとの間に多大なストレスを生じさせる。

近年は、生殖という生物学上の機能でジェンダーを縛りつけることが減り、母性のイメージも徐々に変わりつつある。つまり、母性こそが生物学的な生命の起源の中心にあるという考え方から、性別に囚われない新たな方法で子を養育する状況へのシフトが行われているのだ。もしも、社会から寄せられる女性への役割期待・規範による社会心理的「母性」と、母子保健の観点を中心とした生物学上あるいは医学上の「母性」を、それぞれに独立したものであると分けて考えるのであれば、ステップファミリーや養子縁組、クィアや同性間での子の養育、離婚後の共同養育など、親子関係や母親としての在り方に新たな広がりが生まれる。これは、どのように子どもを育てるかという普遍的な問題を社会モデルとして前面に押し出すものである。
何世紀もの間、教育も含んだ子どものケアは女性の担うべき領域であり、生物学的に自然な行為として、対価を必要とする労働とみなされてこなかった。カール・マルクスは、社会に必要な生産力を生み出すという意味において、女性の家庭内での活動は労働であるとし、それを再生産労働という概念で提唱した。しかしながら、養育や介護は、現代の資本主義的な活用論理においても、ビジネスに組み込まれないことには経済的な価値を持つことができないのが現状である。地球温暖化による災害や資本主義が環境へ壊滅的な被害を与えつつある今、搾取し効率的に利用するというロジックで運用される資本主義システムそのものが問い直されている。
私たちが人間として地球上のあらゆる生物とどのように共存していくのか、社会モデルとしてのケアの在り方が、大きな論点になっている。性別や年齢を超えたところの基本的な行動原理として、「他者やものをケアすること」は、利己主義的な考え方から抜け出し、人々との関係性や生活に重点を置くある種のモデルとなり、それこそが自然環境や社会全体を回復へと導くのではないだろうか。

母性的なケアの特徴とはどんなもので、その行動様式はどのようなかたちで一般社会のレベルに応用可能だろうか。生まれてくる子どもたちの心身の健康に配慮すること、家族に対して社会的・精神的に責任を持つこと、日常生活を円滑に取り行うこと、教育を含んだケアによって子どもの将来的なチャンスを保障すること、コミュニティを作り人間関係を構築すること、仕事の分担、共に行動し互いに成長することなど、こういったことがお互いにケアし合う社会を作っていくのではないだろうか。これは、自分の行動のみに焦点を当てるのではなく、自分自身を全体の一部として捉えるということに繋がる。そうして形成された、共有できる存在としての世界が、わたしたちが他者と人生を共にするための大きな力となるのである。
しかし、感情的な親密さがかえって葛藤の原因になることもある。相手に対するケアが不足している場合のみならず、ケアしているつもりが独占的・支配的になってしまったり、あるいは自分自身の重荷になってしまったりと、やり方を違えることで様々な状態が発生しかねない。生産労働と再生産労働の間で、自身のキャリア、家族に対するケア、それに自己のバランスを保っていくのは容易なことではなく、そのためには、家事・育児の分担に加えて、無数に存在する家庭内の労働に社会として新たな価値を付与すること、そして生活の再認識が求められる。
気候変動とそれに伴う人々の意識の変化を背景に、トーマス・メッツィンガーは、職業的な成功や金持ちになることよりも、もっと美しいこと、もっと面白いことがあるのではないかと問いかける。もし私たちが、経済的あるいは自己中心的な動機に振り回されることをやめれば「自分自身の心と新たな方法で向き合い、そこで行われる自身との内なる対話は、よりシンプルに生きること、そしてより幸せになるための助けになるだろう」とメッツィンガーは言う。こういった「世俗的なスピリチュアリティー」(メッツィンガー)という意味での人々の意識の変化は、私たちが共に生きる新たな世界を想像させ、その実現への道標となるだろう。
ダナ・ハラウェイが提唱する、種を超えた類縁関係(kinship)ーー人間が人間以外の生物と共生関係を築くーーという社会モデルは、種の存続を確かなものとするためには人間以外の生物との共生が不可欠であり、すべてのものが共に成長し行動する社会を作っていくことがいかに重要かという点を強調している。共生という文脈で興味深いのは、ジャック・ラカンの「鏡像段階」(幼児が鏡の前で自分の全体の姿を見て、初めて自分自身を認識する段階)への言及である。これは自律性の芽生えであり、子どもは自分自身を認識することで、それまでの母親との共生関係から自分を切り離し始めるのだ。これについて考えていると、母親との依存関係から抜け出した先で、また別のかたちでの共生を人間は必要とするのか?という疑問が出てくる。どの程度の自律性が人間には必要で、自律性と共生を両立させるためにはどうすればよいのだろうか。実際のところ、私たちは常に他の人々や生物、それに環境と依存しあう関係にあるのだ。私たちは空間、時間、社会の中にあり、人間関係、生活環境、社会過程、それに生態的プロセスに依存している。このことをしっかり意識すれば、自分が全体の一部であるという感覚が生まれ、共感によって、異質な他者を恐れる気持ちに打ち勝つことができるだろう。その結果としての私たちの自律的な行いは、人間関係や依存関係に影響を与え、それがまた新たな関係性を作っていくことだろう。
私が子どもから学べるのはどんなことだろう。私が次の世代に伝えたいことは何だろう。世話をすることと支配することは何が違うのだろう。地球温暖化や社会の冷淡さに直面する私たちは、ケアする対象を人間だけに限定するのではなく、すべての生き物と地球全体を総合的な生命体と捉え行動していく必要がある(Holobiont)。エコフェミニズムの考え方は、現代の環境破壊のメカニズムを克服し、最終的にすべてのジェンダーへの適切なケアを当たり前のものとして定着させるための助けとなるだろう。

アペフチは日本列島北部周辺に住む先住民族であるアイヌ民族の伝承に登場する火の神である(この神が神謡に登場する時には「アペメル・コヤン・コヤン/火の光・あがる・あがる」というようなリフレインがつく)。アイヌの人たちの家の中心には、家を暖めたり料理をしたりするための炉が作られる。その炉には家を守る火の神であるアペフチが宿り、一家が安全に、そして平和に暮らせるよう見守っていると信じられている。アペフチは家の中で最も尊い神であり、山の神や海の神、その他種々の神々が客として家を訪れた際には、この火の神が客の神々の話し相手になる。アイヌの人々は火の神をなかだちにして様々な神を礼拝し、先祖供養も取り行うのである。それゆえに、火の神が宿る炉はとても大切なものであり、一度火入の儀式を行うと、その後はどんな時でも決して炉を汚したり、火種を絶やしてはならないという。
火を司り、火花を舞い上がらせるこの女性の神は、親密で暖かい社会の守り神として、人々の平和な結びつきを支え、人間を死者や神々と繋ぐ役割も担う。彼女は現実と霊性を仲介する者として人々の心に存在し、思いやりに満ちた結びつきが生まれる時、火の光を高く高く舞い上がらせる。

Sabine Winkler
翻訳:小沢さかえ

(1)トーマス・メッツィンガー, 意識の文化 - スピリチュアリティー, 知的な誠実さと惑星の危機 『Der menschliche Geist scheint in der Klimakatastrophe seinen Meister gefunden zu haben(人間の精神は気候変動の危機に際して主人となるべきものを見つけたようだ)』刊行にあたってのテレサ・シュウィンクとのインタビュー記事 2023年1月12日発行 哲学雑誌『philosophie』 www.philomag.de/artikel/thomas-metzinger-der-menschliche-geist-scheint-der-klimakatastrophe-seinen-meiste


(2)同上
(3)ダナ・ハラウェイ, Staying with the Trouble – Making Kin in the Chthulucene, Duke Universtiy Press, 2016
(4)ジャック・ラカン, フランスの精神科医、精神分析医、1901年ー1981年

(5)ホロビオントという言葉の定義について:Zentrum für Kunst Karlsruhe, Glossolalia, zkm.de/de/holobiont ホロビオントとは、複数の異なる生物が共生関係 (symbiosis) にあり、不可分の一つの全体を構成している状態のことを表す自然科学の概念。さらにホロビオントとは、複雑な相互作用を持ちながら全体として生きている異なる生態系生物のグループを指す。ホロビオントの特性は変わりやすいが、ホロビオント内のすべての生物(微生物、バクテリア、ウイルス、胞子など)の間には、絶え間ないやり取りがあり、変容を続けるある種の対話が存在する。すべての種には、生命を存続させてきた進化の過程が織り込まれており、その中にはお互いを補い合いながら共生するという文脈が含まれている。


(6)アイヌあるいはウタリ:アイヌはアイヌ語で「人間」ウタリは「同胞」という意味。参照: Abe Kamui – Japanische Göttin des Feuers, der Feuerstelle, des Herdfeuers, artedea.net/abe-kamui-2/ (7)Abe Kamui – Japanische Göttin des Feuers, der Feuerstelle, des Herdfeuers, artedea.net/abe-kamui-2/


(8) 参照: Abe Kamui – Japanische Göttin des Feuers, der Feuerstelle, des Herdfeuers, artedea.net/abe-kamui-2/

 

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