S : SEHNSUCHT(憧れ)
憧れとは、意のままにならない相手や、実現しない想像や願望など、常に何かしらの欠落を伴うことに対して抱くものである。それは、何かを決断し実行に移す前の、”あらゆることが起こる可能性”に満ちた状態であり、憧れていたことが現実となった瞬間に消えてしまう。誰かに恋焦がれるのは多くの人が経験することであるけれど、なぜ人は特定の誰かを好きになり、それが別の誰かではないのか、合理的に説明することはできない。憧れは、何か/誰かを、失くした/亡くしたことが背景にある場合には哀しみになり、何か/誰かに憧れている状態を楽しんでいるのであれば喜びになる。思い描いたことが現実になるよう願うこと、理想的な状況を想像して楽しむこと、そのどちらもが憧れなのである。憧れは、過去にも未来にも向けられ、喪失によってもたらされる場合や、愛情の不足によって生じる場合など、そのあり方も様々である。何かに憧れを抱くことで、欠落/不在が補われることもあれば、逆にそれが欠落/不在を際立たせることもある。
A : ANSWERS
何かを切望することは、過去や未来の人生の選択に対する一種の問いかけであり、現実としての今はそれに対する答えなのだろうか?憧れとは、今ここにないものや虚構の出来事を想像の中では生き生きとそこにあらしめるという、ある意味、欠落に対する反応である。とりわけ、特定の人物がいなくなってはじめて意識されることなどは、失ったものは何かということに対する答えだと言える。それは、応答する(ANTWORTEN)意欲や可能性までが、失われたということであり、単に、その欠落によって、応答が得られなくなっただけでなく、責任を負う(VERANTWORTEN)こともできなくなるのである。責任を負うとは、一方が他方に意識をしっかり向けていることが前提になる。他者や、あるいは何かに応えようとすることに、必ずしも責任が伴うわけではないが、責任というものを考えるときの前提条件のひとつではある。誰かに応答するとき、私たちは、責任が生じることを承知で相手の状況を共有し、人生の疑問や課題に共に向き合おうとする。そうすることで「私」は「私たち」になり、具体的な解決策を提示しないまでも、それこそがひとつの応答となる。
N : NEARBY
他者と自分が共有するものについて考えたとき、そこに親密さが生まれる。誰かとの親密な関係は、願って得られるものだろうか?思い出に浸ることや、文学に触れること、デジタルでのコミュニケーションなどによって、ある程度までは、観念的な親密さをリアルに感じることはできる。一方で、身体的な親密さは、人と経験や幸福感を共有することが必要になる。パン デミックが起き、お互いの距離が物理的に制限されたことで、誰もが身体的な接触を失うことの意味を痛感した。リモートでの対面とは対照的に、直接の対話は、五感をフルに使って相手の反応を感受することができる。感覚的に感受できるものが親密さの全てではないが、状況を判断し、応答を得るためにはやはりとても重要なのである。他方で、親密さはバーチャル空間でも形成される。考え方や感じ方、物の見方や対処の方法、何を大切にして何を支持するかを知ることは、お互いに繋がっているという感覚、ひいてはそれに伴う互いへの責任感を生み出すのだ。親密な関係を求めることと、誰かと近づきすぎることへの恐れは同時に存在し、それが人生を形作っていく。仲良くしたいのは誰なのか、距離を取りたいのは誰なのか。
A : ALL WILL BE FINE
すべては、また良い方へ向かうだろうか。どんなことでも、状況が良くなる可能性を常に秘めているし、今がずっと続くことはない。今が続かないということは、悲しいことでもあるけれど、そこに希望があるとも言える。過去や未来とどう向き合うかは、現在の状況を大きく左右する。思い出によって、かつて誰かと過ごした親密な時間を慈しみ、また、今ある関係性に 責任を持つことによって、将来的に信頼できる繋がりを作っていく。果たして、状況の良し悪しと人の行いに関連性があるのだろうか。正しい行いをするとはどういう意味で、その正しさとは誰によって決められるものなのか。正しさが意味することも慣習によって変わってくるが、そこで行動の指針となるのは、法律で規定されていることに加えて社会的な不文律である。これに関しては、個人の考え方の違いも大きく影響する。このように、時として、”良い行い”をすることが、事態が良い方向に向かうための条件となるのである。
E : EMPATHY(共感)
現代のように、自己実現や自己表現が重視される時代においては、感情移入できるかどうかが共感を得るための手がかりになり、それは共通項が多いほど得やすくなる。他人の感覚、思考、感情といったものだけではなく、あらゆる生きとし生けるものに意識を向けられれば、多くの人の人生は豊かなものになるだろう。そしてまた、悲しみの淵からも抜け出すことができる。
SABINE WINKLER
翻訳:小沢さかえ
心象のイメージ
それから彼について知っているいくつかのこと
S は SANFTMUT(柔和)の S
早苗が放った柔和さ、そこには自分の目的に向かってゆく確固とした意志が共存していた。無理矢理決めるのではなく、自然と生じてきたことを摂理とする意志。早苗は「欠如への嗜好」を生きる柔和なすべを心得ていた。人間とは、どうしようもなく欠如した存在だということを知っている人だった、、、
STREETWISE(道端の賢者)の S
試行錯誤の場であり同時に守られた場である学校から、彼は早い時期に去らねばならなかった。仕事の世界へと放り出されて実際の生活の中で学んでいった。厳しい課題。この宿命を受け入れて彼はそこから学んだ。時とともに彼は自身を新たに発見していった。
SELFMADEMAN(自立創生)の S
店にひとりで立ち、常連客をもてなし、あらゆることを背負って、危機を乗り越え、痛む足を引きずっても働き、病気には決してなれない、それには強い意志と勇気とス・タ・ミ・ナとまだまだ色々なことが必要だ。
SONNENPOESIE(太陽の詩)の S
「太陽の下、太陽の下にいることより素敵なことなんてない、」帽子、花柄のシャツ、三線、憧れの沖縄。オーストリアへの旅、そこから大好きなスペインやクロアチアへ。そう太陽を求めて、太陽と海。
SPIELEN(遊び)の S
まずはゴルフ。集中 – ザッ!ボールが飛んでゆく。注目すべきはしかし彼の中と彼の周りにいる子どもだ。ウィーンのガーデンレストランの真ん中で早苗は小さな息子と遊び始め、息子にジャグリングボールを投げる。他の客が食事をしながら話をしている中で、早苗はエーミールと遊びまわっている。お正月には昔ながらのベーゴマで遊んだ。背の低いブリキ缶の上で、手に巻きつけたひもを使って回したコマがくるくる回る。早苗のコマが一番長く回っている、勝った。新年の福がやってくる!躍動と静寂が同時進行する、至極単純だけれど難しいこの遊びは今もなお魅力的だ。コマの回転速度が速くて回っているのか止まっているのかわからないくらいの状態を日本語では、コマが「眠っている」という。早苗のコマも「眠っている」のかもしれない。
SCHWEIGEN(沈黙)の S
早苗の店のカウンターで客が話している。この店の料理人と客の距離感は目を引く。早苗は客の目の前で料理をする。麺をすくい上げ、皿や鍋でジャグリングして、ネギを釣り上げて具材でスープを飾る。他のおつまみを用意している早苗の耳にはたくさんの話や人生の悩みが聞こえてきては通り過ぎてゆく、、、そして、彼の返事は: 料理を客の目の前に出すこと。こんな風に言っているようだ。さあ、まずは美味しく食べて、麺をすすって、そうすればみんな良くなっていくから、ほら、超絶おしゃべりな「外人さん」!君たちに対抗して僕は「手仕事」で伝えるよ。僕が作った料理を召し上がれ!
彼の目立たぬ沈黙の哲学は村上春樹の小説に出てくる免色渉の言葉に似ている:「この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明すべきでないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なものが失われるという場合には」(『騎士団長殺し』より) そんな風に不思議なことが、時には大きなそして時には小さな奇妙な出来事としてまたは人生の謎として日本の (そして他の国の)空間に飛び交っているのだ。そうねえ、、、
A は ALTERSLOSIGKEIT(年齢不詳)の A
早苗が何歳か私は一度も考えことがなかった。早苗はいつまで経っても変わらなかった。歳をとっているというのでも、若いというのでもなかった。いったいどうやったらそうなれるのだろう。
「社会に馴染んだ AUSSENSEITER (アウトサイダー)」の A
早苗は一皿のアナーキズムと盛りだくさんのコモンセンスを身につけている。早苗はその人生に、誰も真似できない型破りな足跡を残していった。でも孤独ではなかった。
根気強い ARBEITER( 労働者)の A
日々同じクオリティのものを提供するということは、日々を新たな情熱で始めるということだ。有名なラーメンのスープについて、いや食文化について言えば、日本人にかなうものはない。
N は NUDELLOKAL(ラーメン屋)の N
はるばる亭はバーとラーメン屋と居酒屋の中間にあるような店だ。早苗が創った場所。ジャズが流れ、季節ごとに暖簾が掛け替えられる。「経堂サンダウナー」や「沖縄サワー」のようなカクテルがあり、おつまみがあり、そして伝説的なラーメンがバリエーションでおいてある。映画「たんぽぽ」以来、私たちも知っている。ラーメンを作って「うまい!」と言われるまでにどれほど高度な技術が要求されるのかを。早苗はどうやってすべてをうまくやっていたのだろう。大変な仕事と遊びと音楽とスキーと、それから家族と、、。
NANTONAKU(なんとなく)の N
そう、まさになんとなく、、、
A は AUTODIDAKT(独学)の A
早苗は独自の生涯学習プログラムを実践していた。それは「なんとなく」実践されていた。驚くべき、そして感嘆すべき方法だ。
ALLTAGSHELD「日常のヒーロー」の A
早苗はいつでも今ここにいる日常のヒーローだ。やるべきことをする。静かに、目立たず、だからこそ印象深い。(おつかれさま、、、)
E は EREIGNIS EDWINA (エドヴィナというできごと)の E
EREIGNIS EMIL(エーミールというできごと)の E
自転車のできごとの E
それは死から命に向かってのクラッシュ、別のその先の命への。
KARIN RUPRECHTER-PRENN 09/2022
訳:真道 杉
S:千円札(彼もまた、服を作る)
ラーメンの丼を受け取り、箸を割って食べ始めようとした時、カウンターの向こうから、「知ってる?」と声がかかった。 「何をですか?」と聞き返す間も無く、「千円札ある?」と畳み掛けられて、「あります」と、財布から千円札を取り出した。 「これね、ほら、シャツになる」渡した千円札を、目の前で何回か折り曲げてみせると、半袖のシャツができあがった。お札の柄が、アロハシャツのように見えた。「おもしろいでしょ。かんたん」そう言った眼が、やってみろと笑っている。手順を教わりながら、カウンターの上で、千円札を折っていく。やがて出来上がった小さな半袖シャツを、さっきのシャツの横に並べる。やっぱりアロハシャツに見えた。「いいでしょ」「いいですね」折りながら、まだ箸をつけていないラーメンがどんど んのびていっていることが、気になっていたけれど、それでもその小さなシャツを折っていた時間はなんだか楽しくて、この千円札は、もう使えないなと思った。ラーメンは、また食べにくればいい。案の定、小さなシャツはまだ財布の中に入っている。
A:アルチュール・ランボー(あるいはアブサン)
10年と少し前、この町に引越してきたばかりのころ、まだ体も気持ちもこの場所にちっとも馴染んでいなくて、家の外に出ればいつもどこか心ぼそく、少し歩き回っただけで妙に疲れて、すぐ家に取って返してみたいなことを繰り返していた。そんな時に、どういうきっかけだったのか、たまたま通りがかったのか、なにか地元を紹介した雑誌で見たのか、とにかく昼ごはんを食べようと入った店の、カウンターの向こうの冷蔵庫の扉に貼られた紙に、マジックで書かれた、中也やエゴン・シーレ、アルチュール・ランボーといった名前が並んでいた。どうやらその紙はメニューのようで、そこにあった名前は、みなオリジナルのカクテルらしかった。
私は、ほとんどお酒が飲めない。おそらく、遠い祖先は渡来人なのだろう。とにかく、アルコールに対する耐性のなさは尋常ではなくて、お猪口一杯にも満たないほどの許容量を超えると、たちまち塗炭の苦しみを味わうので、お酒を飲みたいと思うことは、普段まずない。それがこの時は、ランボーを中也を飲んでみたい、と思った。
N:夏休み(A LONG VACATION)
年々、夏の暑さは耐え難くなり、新しく、猛暑日という言葉も覚えた。こんなに暑いのに、生真面目に働くのはおかしい。も う夏はみんな働かずに休んだほうがいい。心底そう思うのだが、思うだけで実際には休まない。まあ、みんなも休んでないしと、自分を慰め、もし休んだら仕事相手に迷惑がかかるものなと、もっともらしい理由をつけては、美しい自己犠牲を払い続ける。みんなも休んでない?そんなことはなかった。しっかりと降ろされたシャッターに、また、夏休みを知らせるあの貼り紙がある。いつからいつまで、とも書いていない。気がすむまで、自分がいいと思うまで。うらやましくなるのだけれど、それは一瞬のことで、その気持ちはすぐに畏敬の念に変わる。ルソーのいう「自由な主体」とは、きっとこういうことなのだろう。いつのまにか、貼り紙で知らされるのは、夏休みだけ ではなくなった。ロング夏休み、梅雨休み、秋休み、冬休み、国際ラーメン会議への出席、その種類ははどんどん増えていく。「自由な主体」は、いよいよその強度を増していく。
A:アルバイト募集
いつのころからか、店先に、アルバイト募集の貼り紙を見るようになった。「アルバイト募集日曜日国籍不問」とあって、おそらくそれと同じ内容のことが、英語、中国語、ドイツ語など、7つの言葉で書かれていた。この店に通うようになってしばらくして、文庫本を読みながらラーメンの出来上がりを待っていた私に、カウンターの向こうから店主が話しかけてきた。ゆったりとした、独特の抑揚で。あの時、私は、この町に受け入れられたような気がした。この町で、自分が暮らしていくのだという実感をその時初めて持てたように思った。
そのアルバイト募集の貼り紙を見て、私と同じように感じた人はきっといたはずだ。この町が、そして、この国が、大きく手を広げて、「ようこそ、よくきたね」と、自分のことを招き入れてくれたと。
E:ÉTERNITÉ(永遠)
また見付かつた、何が、永遠が、海と溶け合う太陽が。アルチュール・ランボー/小林秀雄訳
岡田望
ズットズット SANAE!!
2022年 2月 22日。経堂の人気ラーメン店はるばるてい店主大田早苗さんが亡くなりました。客の魂を解放する天才料理人として、陽気でひと懐っこい旅人として、世界を股にかける鬼才ファッションデザイナーの夫として、駄洒落に厳しい父として、自由を愛するアーティストとして、の生涯を閉じました。 その日から妻エドウィナ・ホールは問い続けています。サナエチャンとはなにか。死んでしまうということはどういうことなのか。逃げないでください、と安らかに眠るサナエチャンに泣きながら訴えていたエドウィナ。死がふたりを分かつというのは、どういうことなのだろう。隣で、逃げたんじゃないよ、とちいさな声で否定した私もそれから問い続けています。死は本当にふたりを分かつんだろうか。
農大通りでファッションモデルのように帽子をかぶり、でも、見たこともない異邦人のような姿ですくっと立っていた早苗さん。青い矢車菊の花びらを散らせた超絶美しフルーツサラダを気まぐれで考案した早苗さん。哲学を服に縫い込むエドウィナに惚れ、その才能に惚れ、世界へ自由に羽ばたいてゆくのをすでに見ていた早苗さん。
その人を知る人が全員死んだ時がその人の本当の死だ、と言っている作家もいます。ということは、早苗さんが記憶の中に生き続ける限り、早苗さんは本当には死なない。その人の存在が永遠であると知る人が生き続けることで、永遠が結晶していく。今季、エドウィナホールがあなたの心に焼き付けるのは、 S.A.N.A.E.。飲食も服飾も含め、自由な人生を満喫しよう。休もう。旅をしよう。早苗さんを知っている人も、知らない人も、そんな気配を感じていただけたら幸いです。
実はエドウィナホールのデザインのディテールも聞かれると指南していたという早苗さん。今後のリアルな身体はエドウィナホールひとり分ですが、思想部分はもはや渾然一体のふたり分ですので、今後ともエドウィナホールの中の早苗チャンをどうぞよろしくお願いいたします。
S.A.N.A.E エドウィナホール 2023 春夏コレクション
マエキタ ミヤコ
いてるばるは、永遠に
悲しい。どうしたってお世話になった人との突然の別れ は悲しい。だけどいつまでも此岸にいる私が悲しんでば かりじゃ亡くなった人がちゃんと彼岸にいけないかもし れない。だから今日はたくさん思い出して、静かに送ろう。 きっとあのひとなら好きかなと思うようなレコードを聴 いて、静かにその人との時間を反芻する夜。 その人との出会いは東京の世田谷の経堂だった。ある日 突然、「はるばるてい」と書かれた看板を掲げ、のれんを だし、でっかい提灯をさげ、小さな店を開いた。その「は るばるてい」と書かれた文字が、その人、つまり店主に よるものだとなんとなくわかったし、その人懐こい文字 が実にチャーミングで、私はよく「いてるばるは」と呼 んでいた。店内にはジャズが流れ、カウンター数席。あ んたの好きな美味しい支那そばが食べられるラーメン屋 だよと、当時のマネージャーに連れられていった。マネー ジャーは支那そばを頼むと漫画を読み始め、私たちはティ オペぺを頼んだ記憶がある。ラーメン屋でティオペぺが 飲めるなんて嬉しくなって昼間からよく飲んだ。それに してもここのラーメンが好きだった。当時、私は六本木 の大八が好きだったから、世田谷の経堂で支那そばが食 べられるときいて嬉々とし駆けつけた店だったのだ。「は るばるてい」の店主はタイダイ染めの T シャツをサラリ と着こなし、実に物腰優雅にラーメンをこさえる人だっ た。そう、まさに腰の動きがしなやかで、キッチンの台 と腰との関係性にあるグルーヴがあるというか、なんだ か不思議な料理人だなあという印象だった。「僕ねゴルフ のインストラクターやってたことあるんだよね」って後 から聞かされた時は、ああなるほど、あの腰の動きバラ ンスの良さは体幹が良いんだなと腑に落ちた。壁には店 主が描いた小粋な絵画が飾られ、窓辺にはグレートフル デッドのくまちゃんステッカーが貼られていて、なるほ どその腰つきのグルーヴはどこか旅を感じさせる、ヒッ ピーライクなものだなとなんだか私は気に入った。支那 そばのスープも私の好みで、それになんたってずっと食 べられないでいたあの「割り箸」と呼んでいたシナチク がそこの店主の手によると、何この食感?!割り箸みた いじゃないシナチクだ!とシナチク大好きになったほど、 この店主のこさえる味が私の好みだった。私はまだ 20 代で、あちこち飲み歩き、大胆不敵なイカれた独身生活 を謳歌した経堂時代と呼ばれた頃だった。 店主は夏になると秋が来るまで店をしめ、オーストリア人 の気の優しそうな彼女とあちこち旅を楽しんでは、秋頃に また店ののれんを出した。のこのことラーメンを啜りにゆ くと少し旅の話なんか聞けて、それがとっても私は楽し かった。春には花を楽しみ、梅雨には体をやすめ、紅葉狩 り、冬は休むと。とにかく四季折々を感じること、生活の 中にそれが当たり前のリズムとしてあった人だった。季節 の花があったり、食があった。ジャズの流れる店内で、絵 画好き店主オリジナルの不思議なカクテルもたくさん飲ん で酔いしれた。名前も店主ならではで、ミロ、ダリ、ピカ ソ、のちにはフリーダカーロ、ドヌーヴ、マルチェロ、中 也などなど味わい見た目共々実になるほど納得でユニーク だった。旅先で出会った味を楽しませてくれたり、油麺な んかが世に出回る以前に、香麺と称して、油と麺を乳化さ せて食す麺が人気で、ある時、そこについてくるスープに シナモンの粉が振られて出てきた時は、旅と文化と食を楽 しむ店主のその独特のセンスに脱帽した。 ある時、店主が沖縄を旅してハマった三線を夕暮れ時に、 自らつまびいてくれたり、のれんを揺らそよぐ風にレイ ドバックしながら、心地よく過ごした時間。「はるばるて い」には、いろんな時間があった。そう。経堂にはある 種の文化が根付いていたというのも背景にはあった。そ の昔、植草甚一が歩いていた街。遠藤書店をはじめとす る古書や中古レコード店。ニザンというジャズバーもあっ た。四つ玉の玉突き場。学生が集う雀荘。のちにはハスキー 中川さんもレコード店を開く街だった。90 年代、2000 年代以降、それらは少しずつ消えていったけれど、「はる ばるてい」は店主持ち前のマイペースで時代と共存しな がらもゆっくり時間が流れる不思議な場所だった。味噌 樽を裏返してベーゴマであそぶ親子や、夜などは、酔っ 払い客が有象無象に陣取り、ラーメンを我慢した時もあっ たけれど、それにしても、よい時間を過ごした記憶しか 今は思い出せない。店主のさまざまな表情、そしてあの 腰つき、そして中華包丁や鍋や菜箸を器用に捌くあの腕、 そんなこんなを丁寧に思い出して、遠きこのブリティッ シュコロンビアでお別れする私を、彼岸に向かうどこか で「はあい、どうも~」とか店主の声が聞こえてきそう な静かな夜。雨は小降りになり。涙も小降りになってきた。 ちょうど、波のように、さよならがきました。
本当にいい時間をありがとう。どうか安らかに。 店主が好きだった沖縄の海のアフを一枚を捧げて、 悲しいけどお別れします。 それにしてもこの手紙は誰にあてたつもりなんだ私は。 返事はいらないけど。
YORICO DOGUCHI
2022年2月27日16:07