生物種:家族動物(Animal famial)

家族動物という種族は大抵なんでも我慢する。だが家の中にほかの動物がいるのだけは駄目だ。競争心からだが別に理由はない。ポストはもうふさがっているのだ。この動物の類縁はむしろ巨大なサイズのものだ。たとえばゾウ、カバまたはムーン •カーフ。魚の入った水槽はまあ許せるが、でもなぜ ? 自分のほうが心配事を抱えながらも、キーキーと楽しく啼いているイルカみたいに家族の海を泳いでいるではないか。

悩みの種は家族動物ともなると絶えないものだ。小さな店、5人の子供たち、金、親戚 ー トラブル シューティングがほしいくらい。だが面倒なことが多くなるといつもこう言って自分を慰める、「みんな健康なのが一番さ」。会社は、もちろん親父から引き継いだものだが、実際に働くのは姉さんで、妹がときどき手伝い、そのうち連れ合いが加わり、その上、突然姪なんかが居る。あたり前だがここではみんなお互いに助けあうのが規則で、結果が各人の仕事の総計より多くなったりする。そんなところで「信頼を形成する工夫」など要るものだろうか ?仮に決算の数字が危険領域に近づくと帳簿づけが「独創的」になる。そこで従姉妹の出番、プロ中のプロだ。

外見は穏やかに大型家族パッケージの中におさまっているが家族動物を思いがけない事件が起っては悩ます。走行中に車が故障するとか、卑劣な商売相手だとか、顧客の問題、子供の教育、法律問題、次から次へと困ったことが沸いてくるものだ!そこでちょっと頭を働かせると ー まるでタコが触手を伸ばして吸盤を広げ吸い付くように -「おお、そうだ、いいことを思いついたぞ!従兄弟の息子の元カノジョは言語治療士だったなあ、別れてしまったのは惜しかった。あの女性とは話が合っていたのに。でも聞いてみようか」とか「息子の元カノジョの両親は弁護士だったっけ。あそこに電話してみるか・・・」-これでよし。あの人たちにはそのうちお返しに新しい塀でも作らせよう。ギブ アンド テイク。
使えそうなコネは何でも使え。みんなで繋がり、家族のようになって、その関係を維持すべきだ。みんな使われたがっているのではないか ? この単純な真理は結構ただしいのではないか ?「生き残り競争で内輪の関係にたよる人物」ー この動物がまさにそれだ。

やっと来たウィークエンド。家族動物はソファーに寝そべると、古いベストセラー『ミニマム』を読む。読みながら居眠りをするのだが、周囲の家族の騒音は計測器の目盛りをどんどん上げる。というのは、バーベキューの準備が進行中なのだ。全員集合、エルナ伯母さん、エマ伯母さん、ベルタ叔母さん、エーミル伯父さん、姉妹たち、義兄、義弟のA,B,CとX,Y,Z。義姉と義妹たち、義父母に従兄弟に従姉妹達、姪に甥ども、妹の新しいパートナー、娘たちの友達、息子たちの友達数名・・・。「大勢くると落ち着くのさ。私が眠ればほかのものたちがもっとおしゃべりできる。」ソファーは家族の波が打ちつけるボート。だが家族動物には一向に気にならない。それどころか全員そろうのがうれしいのだ。カバはついにまぶたを閉じる。そして家族の沼に身を沈める。半分眠りながら注意を向けていればよい。

ー個人主義者はぞっとするだろうがー 大体、家族のネットワークでは、多彩な社会生活がほぼ自動的に展開される。いつも祝うべき理由があるのだ。クリスマス、復活祭どころではない、洗礼式、卒業式、誕生日、学校での優等賞、結婚式やら旅行から帰ったからとか・・・。お祝いばかりではない。救ってやらなくてはならないこともあるし、姉さんの夫の浮気を探偵を使って調査することもある・・・それと人の死を悼むことも。だがまたその後でうれしいことに親戚の輪にあたらしい命が誕生して加わる。

なんて可愛い赤ちゃん・・・!家族動物はベビー用品の飾られたショーウインドウの前を通り過ぎ「可愛いなあ」とまた子育てを初めから、あの詩のような赤ん坊時代もそっくりそのまま、やってみたくなる。

家族動物の休暇旅行には計画が必要だ。車数台、山のような荷物。冒険旅行風がよい、だからキャンプにしようか。統制、組み合わせ、快適さが重要だ。ネットワークにつながる全員に知らせが届く。家族部隊はサルディニアへ向けて出発だ。とにかく遠くへ行こう、自由と何かを求めて。サルディニアの木々の下での家族部隊の展開には目を見張る人もいるだろう。まず両親のキャンピングカー、第一テントには姉娘とその友達、第二テントには妹娘とその友達、第三テントには二人の息子、第四テントには親戚。するとある日、6人組がそこに立っている。みんなうちの町の者たちだ。彼らはこっちがホームシックにならないようにとちょっと挨拶に立ち寄る。こんなアタックは予想外だった。こうなると家族というものの経験を積んでいるのが救いだ。つまり人が大勢いるところはもっと人が来るもんだ。「やあ、ちょっとうちのテント村へ入ってくださいよ。」心の中で家族動物は思う。『もしモロッコに行くなんて言ったら彼等は付いて来たのかな ?』だが家族動物は家族内ではみんなの同意が必用と知っているから、ーこういう場合、一番望ましい解決にはならなくていつも第二案に落ち着く ー なので、一瞬黙るがすぐに面白おかしく小話などしてしまう。

こんな日々もある。空はどんより曇って、する事なす事がうまく行かない。「もうだめだ。」重要な商談がはじける - ついでのシャツのボタンもはじける。顧客が文句を言うわ、従業員が辞めるといいだす。鬱憤がたまりにたまる。まだ家族動物は怒りを抑えている。夜に娘が新しいボーイフレンドを見せに来る、無職のヒッピーだ。息子が学校を辞めたいと言うし・・・歯が痛くてしょうがない。「もうやめた・・・まるでシジフォスだ!」家族全員に、何もかもに、抑えていた怒りが咆哮となって炸裂する。ちょうどテレビでやっていたサスペンスドラマ『犯行現場』が聞こえないくらいだ。みんなはどうしたのという風に彼を見つめる。「すごい声だったね、まるでライオン」とおずおず呼びかける。家族動物はすぐにサウナへ行って、友達に会おうと決める。「クール ダウン」「チル アウト」、末息子の口癖を実行に移すつもりだ。

シングル社会だという事を話に聞いてはいるが、家族動物は、寂しさや独居、「誰も居なくなったら、誰が私を助けてくれるの」といった問いに悩んだことがない。家族動物は常に更新され、拡張される不滅のモデルを信じて疑わない。家族は広い地平だ。過去に目をやればご先祖さまが居るし、その人たちの人生がある。現在では複雑な、でもほころびのない家族の像を楽しめる、その全員とやりとりができる関係にある。未来についてだって子供たちのおかげで軌道が敷けている。ときには大胆に、みんながいてくれるから、私がいる。・・・ということも考える。家族とは「ネスト(巣)なのかペストなのか」 -こんな二者択一の疑問は浮かんだことがない!彼はネストにうずくまっているのではなくネットワークの中にいる。彼と同種の動物がもっと増えれば、国家は危機的な問題を抱えなくてもすむだろう。たとえば減少しつづける子供の数と、将来の納税者という問題もない、適正な年金ピラミッドが保たれる。要するに「世代間の契約」は機能し、憂慮すべき「人口統計上の変化」もおこらない。『ミニマム』:『ミニマム われわれの血縁社会の衰退と新生』とか『ドイツは疲れている』といったベストセラー。

家族意識を呼び起こすような警告書の類も家族動物には不要である。彼は家族の効用と使用法をよく心得ている。だがこの手押し車を引っ張るために、このシステムを動かすために、つまり家族という生き残り工場を動かすために日夜努力をしている。政治家たちが口にする「子供が居れば家族がある」とか「長期にわたって社会的責任を引き受けるのが家族である」という文句は家族動物にはまったく平凡な言葉である。彼がいつもやっていることだから。

家族動物は人を驚かすのがうれしい。たとえばファミリーギャングを引き連れて、予告もなくウィーンの親戚の玄関口にニヤニヤして立ったりする。「ハロー、来ましたよ。全員寝袋はもって来ましたからね。」この親戚のライフスタイルは彼とは違う。そこを家族動物はよく心得ている。だがこの個人主義者に家族ってどんなに素敵か見せつけてやろうと思うのだ。「勘弁してよ!」
Karin Ruprechter-Prenn
翻訳 菊池雅子

家族結社
私的領域の経済化について

家族は組み合わせが上手くできていることもあるし、よくできていないこと
もある。 たいていの人は自分も家族がほしいと思うが、たくさんの人たちが家族から逃げ出 し、自分の社会的な性格を形成したこの勢力圏から逃れようとしたり、また自分が体 験した家族の構造を再生産しようとするものもいる。核家族が依然としてもっとも普 及したライフスタイルであるというのは、家族の構成と構造が変化し、性差による 役割分担が崩れたにも関わらず、伝統的な家族の概念もまた並行して保たれているか からである。この30 年間の間に労働と家族の概念がさまざまな方向で変わってき た。価値の重点が置き換わったり、解釈しなおされたり、また効用価値の原則に従わ されたりしたからである。家族の構造は経済化の様相を表し、家族というコンテクストからかりた概念を取り込み経済の構造は婉曲に美化される。会社や社会一般では自 分のところの労働力の保全のみがその都度の労働環境の整備に直接の責任を持たされ るようになる。

マルクス主義的な再生産労働という概念は 19 世紀の特徴である生産とい
う概念への反動と して生まれたもので、伝統的に女性の仕事とされる育児、教育、家事、家内労働を意 味する。賃金が支払われない再生産労働は、労働力の生産を可能にすること を通じて資本状況の再生産に一定の貢献をする。イデオロギーを基にした行動 様式が常に所与としてあり、各人の働き方は自己規制または他からの規制、社会化と 社会関係の再生産で説明される。各人の役割とアイデンティティは特にイデオロギー にしたがって構成されており、効用価値戦略とコントロールメカニズムによって権力 システムは安定する。

この 30 年間のネオリベラリズムの発展では社会関係の再生産はますます経済また はスポーツ由来の概念の影響を受けている - 社会一般、会社内部から私的レベル で。競争、効率、業績、最大限の自己発揮の義務という言葉がスローガンとなり、こ れらの言葉は社会的能力、また内外に向かって自己表現できる形式を作るコミュニ ケーション能力など、再生産労働と関係のある概念に伴われて、行動の指針となる。 コーチブーム、会社への一体感への要求、社内の行動規則、労働現場に直結して設け られた休憩ゾーンやフィットネスセンターなど、すべて目的に適いかつ実用的に設備 され、もはや分かちがたくなった労働と生活のクオリティーへの付加価値を約束す る。労働領域が定義されるにとどまらず、自由時間の領域もフィットネス、ウェルネスまたは瞑想ゾーンとして定義される。労働時間のファクターのみか自由時間のファクターを通じて、社会は構造化される。効率とか業績という生産労働の観点が私的領 域に持ち込まれ社会関係にも潜り込む。ヨーロッパでは会社は家族より前にあるもの で、家族は事業所のように組織化される。日本では仕事場または会社は伝統的に共同 体とみなされ、それゆえに労働との関係は働いた結果の共同体内の地位で定義される。家族的雰囲気がありながら、労働が目的からそれることなく行われるような労働 共同体では労働は辛いものとは感じられることが少なく、そのせいで確かに生産性 は上がる。だがここで区別するべきなのは、家庭的雰囲気が人為的に作られたもの か、労働環境の中で自然に生まれたものなのかということである。それに続く問題は ヒエラルキー構造の問題である。労働共同体がどの程度この構造を持っているか、または各個人の同権が会社の基本構造になっているかである。経済的な考慮を度外視し て、彼、彼女、彼らに配慮すること、責任、労働外での自己実現、目的とは無縁の人間関係とか、なんらかの機能を果たさないこと、これらは経済的な、したがって社会 一般的な価値体系では評価が低い。もし経済がすべての生活領域に影響を与えるのなら、経済化はますますその実体を見えにくくする。経済化が行動形式を規定する包括的なパラダイムになるだろう。

1950年代には理想的な家族が理想的な労働と完全な対となるパラダイムが
優勢であった。性別による役割が明快に割り当てられていた。主婦は再生産労働に責任をもつばかりでなく、実直さからセクシーさも兼ね備えた存在として夫の社会的地位とその 夫がそれに適っていることを堂々と表していた。控え目、従順、隷属は当然の美徳で あり、その美徳は家族生活の中で政治的、経済的な発展を反映する。社会と技術の発展はさまざまな形態の共同体と女性、男性個人に影響を与える。

共同体の意義は繰り返し再生産され、新たに検討され,諸条件と個人と共
同体との間の関係は変化する。 家族または共同体の成員はどのように定義されるであろうか ? 生物学的、国民としての、または性差によるアイデンティティによってか? または労働、知識、能力、性格によってだろうか ? 他人から与えられたファクターと自分で決めたファクターとの関係が重要である。その際、たいてい経済的な、そして情緒的な依存関係が重要な役を 果たし、個々のアイデンティティを新しく定義しなおすか、解釈しなおすかについて 影響を与える。 家族結社とは何か ? この結社という語には結びつき、ネット化、グループ、または犯 罪組織という意味が混じりあっている。ギャングはたいてい同じ社会的な背景、同じ 興味、人柄、能力、識別マークを通じで組織化され、テリトリーをおおむね暴力を もって守る。いわばより大きな政治関係を反映する小宇宙である。ギャング は構成員が自分で選びかつ望んでなったのだから家族に対極にある例としてみると、ギャングの犯罪性とそれに結びつく暴力が目に付く。ギャングは自分らの掟がある一 方、社会の掟を破る。彼らは社会福祉国家の任務が無力であることを証明する一方 で、極端な社会的格差、社会からの隔離、分離を反映している。ここで問われる問題 は、どの家族的集団が経済と私的領域のものとの混合の中で合法的なものなのか、または非合法的なのもとみなされるかということである。友情と賄賂、マフィア活動と ネットワーク活動との境目はどこにあるか。ネットワーク活動をしなくてはならない時、" いじめ " や仲間はずれという形の暴力が問題になるだろう。または犯罪的な行 動をしながら、世間では高い評価を受けている一族というのも考えてみるといい。 業界、文化的分野やスポーツ界でよく自分たちを、互いに知り合いで、同じ利益や マーケットを持ち、競争関係で結ばれているからと、ファミリーと呼ぶことがある。 このようなコンテクストでは、勢力を得ようとしたり、自分の地位を定めようとする 分野または市場の構成員というほどの意味である。ファミリーへの帰属意識をもつには商 品、いろいろな活動、利害関係を通じてであり、結びつきを感じるのは思考方法、知識、または感情を通じてである。ネオリベラリズムは各個人が自分自身を企業主であるとみて、他の全員と競争関係に入ることで主体を孤立化させる。連帯は共同体の基礎になるものだが、ここではあり得ない。
Sabine Winkler
翻訳 菊池雅子

 

family gang

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