臆病者は年をとれない(年を取ることについての混同した意見の数々)

そう、こういった挑発的な議論が思考の沼から私を現実に引き戻す。年を取ることについて熟考することや、そのことについて偉大な先人たちによって書かれた書物を読み直すことで、私がどっぷりとつかっていた思考の沼から。年をとるということは、誰も避けられないことであり、そして尽きることのない問いかけを孕むものだ。若者たち、老いるということについて、まだ何ひとつ知らない者にとってさえも。そもそも自らも老いるのだということが、想像すらできないということは、それはもうお話にならない程に若いということなのだ。(もし、あなたもそうなのならば、退屈しないためにもこれを読むのはすぐに止めたほうがいい。)
ところで : あなたは何歳ですか ? - ………………………….

もし、あなたがいま年齢を偽ったとしよう。あなたが女性であった場合、私はあなたが『ある一定の年齢に達している』と理解する。その女性(あなた)の自己イメージが、実際の年齢より若いものであった場合、自分の本当の年齢を黙っておくということは、当然認められる正当防衛であり、女性特有の一種の儀式のようなものである。一方で、年を取るということは、認知の問題における文化的なコードでもある。すなわち、昔から、世間一般の認識では、女性が年を取るということは若さが失われることであり、男性の場合はそれが成熟であり、威信を勝ち得ることに繋がると見なされているのである。女性にとっては『格下げ』であり、男性にとっては『格上げ』となる。年を取る課程で、人生の行路に待ち受けるあらゆる好ましくない事態は、いかにも女性的である。なかでも好ましくないのは、女性が年を取ることが『格下げである』といった認識を抱え、このような価値のない物差しで自分自身や他人をはかることである。そうやって女性は自縄自縛に陥る。若々しさの仮面をまとい、その理想像を、多かれ少なかれ、かつて少女時代に自らが持っていた美しさに求めるのだ。スーザン・ソンタグは、彼女のその深い洞察に満ちたエッセイ «The Double Standard of Aging» (1972)の中で、嘘や自己欺瞞というかたちで若々しさを演出することについて批判しており、女性が年齢を否認することで、自らをして主体性を剥奪する共犯者たらしめると述べている。ソンタグは、現実離れした美への憬れから解放されなさい!自分の年齢を認めなさい!と要求 する。
ただ、この年を取るというプロセスには、実は多くの側面があり、だとするとソンタグのこの真実の年齢を認めよという要求は、少し厳しすぎはしないだろうか? 自分を若々しく装い、そのことを楽しむということが、何か悠々とした心のゆとりのようなものを感じさせるということはないだろうか? 年を取ることは、単純な時間の経過や生物学な問題以外に、文化的な構造を持つものであり、そしてまたその構造は絶えず変化していく。その変化の先にあるのは、楽観的な老齢のイメージだ。ある研究によれば、老齢は人生のうちの第四段階として重要な時期であり、リタイアしたからと言って、何もせず無益に過ごすべき時間とは見なされない。医療や科学技術の進歩が、老人の置かれた状況をより良いものにする手助けをし、それ は、老人も社会の一員であるという認識に繋がる。さらに、さまざまな社会的分野において現役として役割を担い、専門知識を次の世代に伝えていくこともできる。
老いの美しさ :
もちろんある!自身を価値ある存在だと感じることや、静かに澄み渡った境地が作り出す美しさ。

愛情 :
恋に夢中の老人は、タンゴ教室や映画の中だけの存在ではない!
それに、子どもたちと老人の間には特別な愛情があり、互いに惹かれあう。今まさに人生の幕が開いたもの、その終焉を迎えようとするもの、それぞれの人生が重なる。

«Doing Age»:
年相応に体を動かし、健康に良いものを摂り、体の隅々まで化粧品を使い、整形手術、それに植毛をして……
『生涯学習センター』に通い、『老年期を再発見する』というモットーのもとにZ人大学で学ぶ。

«Undoing Age»:
何をやったって無駄と納得すること。青年期においてもすでに存在する、若くありたいというどうしようもない欲求を持ち続けることの無意味さ。

年齢によるストレス :
老化に伴って、その都度延々と繰り返さねばならない自己最適化に苦労せざるを得なくなる。だが、我々は途方に暮れ、ただただ老化に身を委ねているわけではない。どのように年齢を重ねてきたかというのは、やはり外見にあらわれてくるものなのだ。世の中は『活動的=魅力的』というメッセージに溢れている。そう、これもまた自身との戦いだ。努力した者は、美しくそして健やかでいられる。賢くあらねば。無駄に若く見せようと必死に努力することは、かえって哀れな老いた姿を浮き彫りにする。ヒステリックな衣装を身につけた老いぼれの演じる舞台など、誰が見たいだろうか。

こういう表現がある :
ベストエイジャー、シルバーセックス、ジェネレーションハッピーエンド、アルトガイレ(好色老人)、ルンツェルセックス(しわしわセックス、老人によるセックスの意味)、若い老人、老いた老人……そして、リー・エデルコートによる、来るべき2020年が、老いのない社会になるだろうという予測。

年を取ることを楽しんでいる人達 :
アリ・セス・コーエンの «Advanced Style Blog» には、ニューヨークの街角を闊 歩する70歳から100歳の女性達、それに(わずかではあるが)男性達が、さまざまな超個性的なスタイルで登場する。皆、少なくとも写真の中では、人生の喜びに光り輝いている。「まだ自分たちは終わっていない!」という意識、おそらくそれが、演劇的な文脈をまとうことなく、彼ら一人一人が自分自身として居られる理由であろう。このような、年を取った人間であっても「喜んで生きている」というメッセージにこそ、彼らの輝きの真髄があるのではないか。例えば日本におけるように、私は年をとってしまった女性なんだからと自らを見なし、出来るだけ人目を惹かぬよう目立たぬ格好をして、自らの存在を消してしまうほど哀れなことはない。「私はここにいる!」という主張、それが大切なのではないか。「以前は、よく自分の生徒達に言ったものよ、わたしは50歳と死の間にいるとね。でも今は80歳であると誇りを持って言えるわ」(イローナ・ロイス・スミスキン , NY )

良い手本としての老人 :
ときに、広告やモードの世界にモデルとして老人が登場する。作家のジョーン・ディディオン(80)がセリーヌのコレクションのキャンペーンに起用され、女優のシャーロット・ランプリングはヨウジヤマモトのコレクションで、その美しさを見せた。(しかし残念なことに、老いた人々が起用されるコマーシャルのほとんどが、ビタミン剤や、夢の船旅、シニア向けの豪華レジデンスといったものなのだ)嬉しいことに、時折、東京の電車の中で、本当に好ましい様子の老人を目にすることがある。彼女はその年齢を隠そうとせず、上品で、そして彼女なりの流儀でもって、上手く古いものと現代的なものを組み合わせて身につけている。

老人の占める割合 :
1950年ドイツの人口の50%が35歳以下
2014年ドイツの人口の50%が48歳以下
2030年予測ではその50%が50歳以上
民主主義においてこれは何を意味するだろうか?老人が政治の決定権を持つことになるということだ!そのため、研究者たちは、子どもに選挙権を持たせる必要性を訴えている。

老年学 :
時間軸上で、行政的、生物学的、機能的、社会的、心理学的、倫理的、宗教的、歴史的に、そして個人的な各観点から老年期を多面的に解釈していく。

ウィーンのユーモア :
「皆、長生きはしたいが、年を取りたくはない」(ヨハン・ネストロイ)

名言 :
科学者であるアインシュタインは55歳にして「増大する困難は、新しい考えに適応するためだ」と気づく。ひとつの慰めになるだろうか?ピカソは「また再び子どもになるために、うんと長生きしなくては」と言った。ゲーテは老齢に入ることを、新たに何かを習得し、新しく事業を起こすことになぞらえた。彼は83歳まで生きた。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「年をとるとは、自分自身のことが解かるようになることだ」と言った。厳しく、とても彼女らしい。

静かな老人の戯曲、そして老人の知恵 :
孤独で、凝り固まった習慣、鉱化のように、化石のように……あらゆる力が弱まっていく。けれど、ほとんどの老人は、年をとることは賢くなるということだと老いを受け入れる。ある知人が言った、人は年をとってどんどん目が悪くなっていくけど、これはきっと良いことなんだ。自分の皺をはっきり見なくて済むからね。

老人の貪欲さ :
私に残された時間はそう多くはないから、自分がすることは慎重に選ばなくてはならない。けれども、あとどれだけの時間が残されているかは、全く定かではない。

木の年輪 :
日本語では「年を重ねる」という表現がある。

記憶 :
人が成長したとき、追憶というものは、成長に伴って失われた世界や、閉ざされた未来を補ってくれるのだろうか?

昔の写真を見ること :
これが私?いいえ、これはかつての私。この時の私を本当の私としたいところだけど、そんなことはできないってことも分かってる。そんなにくよくよしてはいられない、すぐにアルバムを閉じましょう!(けれども、ここに写っているかつて私であった人物にもう一度なりたいかしら?それもまた違うわ。)私が最初に老いを自覚したのはいつだったかしら?あまり調子の良くなかったある日、鏡の中にそれまで慣れ親しんだ自分とは違う姿を見たときだわ。ほんとうに驚いた。でもほんの一瞬だけ。

ストア派の信条 :
なされるべきことをしなさい。ひとつのことを成し遂げるための、何かを。

画狂老人、北斎 :
私は、六歳から物の形状を写す癖があり、五十歳ごろから数々の作品を発表してきたとはいうものの、七十歳以前に描いたものは、実に撮るに足らぬものばかりである。七三歳にして、ようやく禽獣虫魚の骨格や、草木の生え具合をいささか悟ることができたのだ。だから、八十歳でますます腕に磨きをかけ、九十歳では奥義を究め、百歳になれば、まさに神妙の域に達するものと考えている。百数十歳ともなれば、一点一画が生き物のごとくなるであろう。

いつだって、考えを深め、経験を積むことはできる。そして、いつだって、年をとることだけが、長生きするための唯一の道なのだ。

Karin Ruprechter-Prenn
翻訳 : 小沢さかえ

You look so young! 「お若くみえますね!」

幾つ年を刻むと私たちは老いを感じるのだろう。年齢に相応しい身なりを心掛ける、あるいは、服装で年を誤魔化そうと試みるのはいつ頃だろうか。服装において年相応の装いを決める際の模範となるのは何者だろうか。

老年とは「形而上学の不道」とよく言われている。人の生は終わりに向かって進み、ある日、来たるべき終幕を迎える。しかし、これが年を取ることの唯一の捉え方であってはならない。とは言え、聞こえの良いことを言うべきだということではない。私たちはみな等しく老いる。それは女性も男性も公平である。男性は社会的に笑い皺やこめかみの白髪を許容されて、人によっては年を重ねたことにより一層の魅力を増す事もあるが、老化で起こる身体の弱体化、視力の衰え、先刻の事も覚えていられない記憶力の低下、その他諸々の老衰から男性たちを守るわけではない。そして、社会が仕向けるモード(特定の表現様式)の規律から守ってくれるわけでもない。

「私はいつもこのような挨拶を受ける。『お客様がお召しになるのですか』と。私が他の誰かのために買うのであろうと思われ、自分のために服を買うのではないような言葉である。古いトランクに母親の衣服を私がしまっているに違いない、そして、母親の年齢になったらそれを取り出して着るのでしょうと言わんばかりだ。」アメリカのフェミニスト反年齢差別の活動家バーバラ・マクドナルド(60代)

服装とくにモードは社会文化的現象によって形成される、それは性と階級の観点から論じられるだけでなく、アイデンティティの問題でもある。つまり社会的に形成された老年の装いという意識である。私たちは年齢に相応しく装い、そのことを意識するしないにかかわらず社会の規範に従っているのである。

「トーンダウンしないで!」とは、老いゆく人たちへの励ましの言葉である。彼らは目立つことを恐れ、年齢相応に装いだすか、̶今までの自分の独自のスタイルに自信が持てなくなっている。年を取るというテーマはすでに公然と議論されるテーマの一部であり、特に若い人たちには関心が高い。スザンヌ・マイアーの見解ではこの様な傾向が見える。

「ヒステリックに老年化へ向かおうとする。おそらく人口統計がいびつな社会、即ちますます高齢化する現代では、若者たちがすでに老年化の勢いに飲み込まれている。そして、元来トレンディな若者たちがこの波に乗って、本物の老人たちと老年化の競争をするのである。」

このことは、20代の若者たちのトレンドであるヘアカラーを銀色に染めるスタイル、30代前半の若者が自身の様を老化現象の現れと嘆くことに認められる。

多くの人々にとって不幸なことは、自分がもはや若くないという時が来るのを恐れて人生の三分の二を送っている。女性たちの年を取るという感慨は、すでに若い時から始まっているのだ。自身と他の女性を比べたり、社会が期待する女性としてのモラルと照らし合わせたり、流行、化粧、生活様式、広告企業のイメージによって形成するのだ。

「私たちはどのくらい年を取ったかではなくて、どのくらい若さを失ったかで判断される」

シモーヌ・ド・ボーヴォアール、スーザン・ソンタグが指摘するのは、女性は男性よりもずっと年を取ることがトラウマになっている。女性が年を取ることは、性的な価値の低下を伴う、なぜならば、女性は美しさを失い、その結果、性的魅力がなくなったことを理由に断罪されるからである。男性は全体としてみられるが、女性は身体を二分割される。女性の顔は身体から切り離され、美の理想の流行に従って造形される。年月をかけて成熟し、その人の人生経験を顔にとどめた女性は人前に姿を現さない。女性にも男性の様に人生経験の刻印を魅力として認めてあげたらどんなに良いことだろう。人生を通して顔に残された精彩の光。失われた若き日々への悔恨の影もなしに。

「私が20歳の女の子だった時と現在48歳の私との最大の差異は、私が知らない人たちに何を思われようが気にしなくなったことだ。他人が考えるイメージは現実の私ではない。私はそれに合わせようとも思わない。」- シェリル・ロバーツ

老人たちには問われなくとも知恵があるという形容詞を与えられるが、同時に停滞という言葉もあてられる。̶その一方、若さとは、活力、短気、進歩、特にまだ消費されてないものへの欲望のメタファーに使われる。まさに常に変化し、新しいものを発見することを身上とし、その由来を忘れたがるモードと同じである。このようなモードの定義では老年の居場所はない。だが私たちは年を取るとともに本当に賢く、思慮深くなるものだろうか。

「フェミニストたちは、私をある役割のモデル、すなわち母親とみていた。それが腹立たしい。私は母親役には全く興味がない。私は依然として自分自身を理解しようとしている少女のままだ。」̶ルイーズ・ブルジョア

スーザン・ソンタグは、小論「老化のダブルスタンダード」で若さと消費志向の社会のジレンマを文化・消費批評の手法で説明する。若さの賛美と老年蔑視は、絶えず成長を続ける企業の生産性向上への欲望、それらの絶え間ない自然循環の破壊を行う、そして理想的なイメージが作り出される我々の俗世界に直接奉仕するのだ。私たちの自然な循環である「古きものから新しきものが生まれる」流れを阻害し、我々は必要以上に買い込み、より早く消費し、廃棄する道へと誘うのだ。

老年とは現在のモード産業が私たち男女の消費者から欲しがるものの正反対にあると見える。モードは若者指向であり私たちに最新モードブランドへの購買意欲を仕向けてくるのは若い無垢の身体である。一つの理想社会、そこでは老年者は現れず、少しも姿を見せてはいけない̶それどころか無視されているのだ。このことでモード産業は新しいターゲットグループ開拓のチャンスをフイにするどころか、社会の重要な視点を忘れているのだ。つまり長生きの幸運は誰にでも与えられるものではない。私たちは年を取ることをむしろチャンスと捉え、やっと身軽になって生きられることを楽しみにすべきではないだろうか。

Sabina Muriale
翻訳 : 菊池雅子 / 竹井博秀

arigatou / danke / thanks
art direction / so+ba
photography / alfons sonderburger
styling / codan
hair + make-up / yoshie sasaki (sylph)
model / leka, yuki, hide, tom, emil, hana
assistance / sabina muriale, yoshiaki kunii, meiri inaba
location / kikuchi's home (thank you)
thanks to sonoko kato, yoshiaki kunii, ryusuke kase, meiri inaba,
hirohide takei, masanori tsuchiya, masumi osakura, sabina muriale,
karin ruprechter-prenn, sakae ozawa, masako kikuchi, takehiro kikuchi,
cynthia peck, asuman mert, alex sonderegger, susanna baer,
evelyn hörl, alfred hörl and sanae ota 

 

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