思考は言語で仮装する。すなわち、衣装の外形から内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、衣装の外形は、体の形を示す目的とはまったく違った目的でデザインされているのだから。
Ludwig Wittgenstein (1889-1951) Tractatus logico-philosophicus, 1921
Paragraph: 4.002
「タオイストたちの言無言 yan wu yan:語を発せずして話すこと」
私達は、日々や、互い同士でも、”言葉を介さずとも十分に語れる”ということを、彼ら(道家)から学ばなかっただろうか。たとえば、愛し合うとき、絶えずなにかを言うことでつながりを求め合うが、実際には何かを「言っている」わけでも「意味」のあることを言いたかったわけでもなく。夜になれば、その言葉たちさえも記憶に残らない程小さく無価値になっていくものではないか。しかし「くちはきかずともはなしたことにかわりない」というようなこともある。探り合う間にしゃべる欲望がなくなり、明らかな合図で訴える欲望もまた無くなっていく。そして沈黙、無言は雄弁ではない ...
出典:フランソア ジュリアン『普遍性、単一性、共通性と諸文化間の対話』、ベルリン メルヴェ社、2009 年
[Original: Francois Jullien, De l‘Universel, de l‘uniforme, du commun et du dialogue entre les cultures.]
Paris: Fayard 2008
私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました
私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた
私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました
私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました
私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました
中原中也 生い立ちの歌より
schön‒schweigen from Chūya Nakahara‘s “Oitachi no uta“