魔法+公式= ?

わたしたちが何を信じるのかということにおいては、その事柄が合理的であるかどうかはあまり関係がなく、むしろ、非合理的な事柄の方を信じる場合がある。これは、社会学におけるある種の考え方が、具体化したもののように思える。例えば、金融市場での高リスクの投機や、群衆行動を考えた場合(注 1)、経済やテクノロジーがあらゆるものを解決すると無条件に信じることは、それと同時に非合理性や不合理な行為を過度に否定するということにおいて、合理的なシステムを神話化することになるとの指摘がある。さらに、テクノロジー信仰や完全なるものに対する幻想は、トランスヒューマニズムのように、人間とテクノロジーを結合させることのみならず、あらゆるものの数量化し、定式化するシステムに人間が順応していくことを目的とする。このような合理的なシステムの神話化と並行して、ファンタジー、SF、モンスターや吸血鬼や幽霊などの話がブームになっている。複雑さを増していくこの世界の中で、不可思議なできごとに立ち向かう者たちの存在が、人々に求められているのだろうか。不合理なことを信じながら、同時に合理的な ことを信じることもあれば、一つの現象の中で、その二つの相反する要素が、重なり合って存在していることもある。そういった場合、この二つのシステムの関係性は、常に新たな見直しを必要とし、その都度更新されていく。

解放と権力としての理性

物事を判断する能力としての理性は、17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙時代には、専制君主制やキリスト教などの伝統的権威からの解放を進めるための手だてであり鍵であった。この時代における理性、教育、学問の発展は、その後の技術、文化、政治の進歩のための基盤となり、自律的な思考や、自らの手で人生を切り開くことのできる自由な市民という概念を生んだ。理性は従来の権威から自由になるための道具であった。ルネサンス期(15~16世紀)に、神が、世界の中心の座を人間に譲ったように、啓蒙時代にはフランス革命により、王権神授説に基づく専制君主制の統治モデルが崩壊した。理性、自然科学、そして普遍主義の理念は、自らの決定によって、よりよい生き方を選択するための前提条件を築いたのであった。しかしながら、こういった理念に基づいた近代という時代が、進歩という名のもとに、抑圧的な政治体制を構築していくことになる。フランクフルト学派(マックス・ホルクハイマー、テオドア・W・アドルノ)は『啓蒙の弁証法』(1944)の中で、ナチスによる啓蒙の失敗を論じている。自然を人間の支配下に置こうとする試みによって、世界へのアプローチは、かつての神話的なものから、科学的認識による合理的なものへと変化していったが、理性が、自然や社会を支配し、そこから搾取するための道具となった時、啓蒙主義それ自体は神話的なものへと逆戻りしていった、と著者は言う(道具的理性)。人間としての成熟、そして、自然によって制限を受ける状態からの解放と引き換えに、支配のための手段としての理性は道具として利用され、さらにその理性は、経済やテクノロジーといったものへの適応を求められること になる。合理的な振る舞いこそ重要視されるべきはずのところに、理性の名の下に正当化された、新たな神話が誕生したのであった。経済とテクノロジーの進歩の神話化は、特に、暴力を是認し、利益の追求を肯定することに利用されてきた。優生学に依拠した人種政策や、民族同化政策などの差別がなにをもたらしたかは、その様々な抑圧や搾取の形態から、ポストヒューマニズム論やクィア理論、ポストコロニアル理論といった形で、研究され論じられている。とりわけ、自然/文化、主体/客体、人間/動物、人間/技術などの二元論的な二項対立は、それによって一方を絶対化するものとして批判される。

ハイブリッド生物

一方、思弁的実在論者は、理由もなく、ただ「存在する」ものとして、人間の思考から独立した「存在」があるとする。(クァンタン・メイヤスー)実在とは、ここでは、人間の思考、意識、ディスクールに依存するものではなく、もはや中心にいる者ではなくなった人間は、ただ、数ある実在の中のアクターのひとつに過ぎない。物、動物、テクノロジーには行為者としての性質は無いとしても、少なくとも実在としての可能性は与えられる。そこには、アニミズムと親和性の高い汎心論的世界を再び見出すことができる。ロッシ・ブライドリッチの展開するポストヒューマニズムプロジェクトの中では『ゾーエ/Zoe』(古代ギリシア語で根源的生命という意味を持つ)という概念が重要な要素となり、ブライドッチはそれをダイナミックで自主性を持つ生き生きとした生物の在り方として解釈する。「ゾーエ」の持つ生産的で変革的な諸力と、非人間中心的な要素を持った他の生命システムとが結合し、新たな立体的構造を作り上げる。ブライドッチはそこへ、非画一的な主観性とそれの織りなす相関性といった、彼女の哲学的ノマド主義を結びつける。ポストヒューマニズムにおいては、例えば人間と動物といった本質主義的二元論は揺らぎ、自然界と社会的な存在が同等なもの互換可能なものとして、変化し、あるいは生成する可能性が追求されるのである。(注 2)このところ映画や小説でブームになっているハイブリッドな存在には、Othering という概念の影響があるように見える。例えば、サイボーグにおいては、人間と結合することで、テクノロジーはその人物に内在化し、人はテクノロジーを自らの物とする。今年、アカデミー賞を受賞した「シェイプ・オブ・ウォーター」は、水棲生物でありながら、人間にも共通したフォルムや心性を持つ生物が人間の女性と織りなす、冷戦下でのラブストーリーである。この、超自然的な治癒能力を持つ、アマゾンの奥地から連れてこられた生物は、実験の対象として軍事施設に拘禁されており、双方の超大国は、その生物を軍事目的で使用しようと目論み、あるいはそれを阻止するために殺戮しようとする。他在の定義に従って、この生物はいつでも殺せる、ただ利用するだけの下等生物とみなされ、場合によっては、相手国より優位に立つための戦略的存在としての価値のみ与えられているのである。もし、非合理性と合理性が同じだけの価値を持つならば、関係からヒエラルキーは消滅し、今とは異なった価値のシステムが生じる可能性がある。これは一見よいことのように 聞こえるが、非合理性と合理性の区別がつかなくなってしまう可能性や、一方が、あたかも他方であるかのように振る舞う可能性も孕んでいる。

神話と伝説

森羅万象を解釈するための方法として、説明のつかないことの多くは、物語や偶像という形で表現されてきた。例えば、メルヘン、伝承、伝説、神話などは、架空の物語を通して、ものごとを解釈する試みであり、また、人生の目的を教え、アイデンティティーはどう形作られるべきか、共同体はどうあるべきかを示すものでもある。そのようにして、繰り返し心に刻みつけられた物語を通して、人間・英雄・星、それに自然現象には意味が与えられ、社会的事件はフィクション化され、犯罪はコード化され、支配者による物語が語られ、イデオロギーが形成されてきた。そして、遙か昔に起源を持つ神話や伝説の他に、アメリカンドリーム、陰謀論、フェイクニュースといったような、現代の神話と呼べるようなものも存在する。そして、未来の神話としての、サイエンスフィクションも。しかし、ミュトスとロゴスは互いにどう関係し、信仰のシステムに影響を及ぼすのか。そして、その関係を決定する要素は、どのように再編成されるのであろうか。神話(ミュトス)は、理解可能な知識としての科学的説明とは対照的に、物語を通じて、架空の知識を創造する。神話的な物語は、時間の経過とともに変化して、もはや追体験でき ないような集団的記憶に起因し、伝承や、映画やその他のメディア、集団的、個人的な体験が混じり合い、構成される。伝説は極端な賛美や否定の性質も併せ持ち、噂や、偽り、プロパガンダ的な傾向を帯びることもある。さらに、現代では、フィクションに基づいたソーシャルなコミュニティーが発生したりもする。現代の伝説がいかに発生するか、そこにはフェイクニュースなどが大きな関わりを持ってくる。あらゆるものが拡散されるソーシャルメディアの反響室の中で、記事もユーザープロフィールも捏造されたものだったにも関わらず、都市伝説といった形で、伝説化していく。それがフィクションややらせであっても、もはやその真偽が疑われることはなく、あたかも真実であるかのように認知される。そういった物語の操作が表現形態のひとつとして当たり前のこととなり、結果、その操作の事実すら意識の中から消えてしまう。このようにして、過去の幽霊は、簡単に忘れ去られることなく、何度も息を吹きかえすのだ。伝説や神話によって、恨み、嫉み、偏見のムードを煽り、アイデンティティーを創出し、恐怖や願望を増幅させ、それを規則や戒律に反映させることすらも可能である。起源や由来についての物語が、のちに国家の建国伝説として、政治的に意味付けされ、アイデンティティーと結びつけられ語られる。神話では、戦争や自然災害は、それを克服した勝利の歴史に変化し、実在もしくは架空の人物が、神々や幽霊や自然の力となって、ヒーローやその他の登場人物を演じる。実際の出来事が神話の一部となることもあるが、むしろ、神話とは、実際の出来事を神話化したものなのである。そしてまさに、政治的な統治システムは、超自然的な現象や神々によって正当化されるのである。

宗教的なエピソード:精霊たちと聖職者

例えば妖怪のように、人間は精霊たちの姿を描くことによって、理解を超えたものに形を与えようとしてきた。複雑なシステムの説明や、その意図するところを、神話的な物語や伝説に織り込むことで、人々は多くを理解してきた。しかしその精霊たちの世界と、宗教とはどういう関係にあるのだろうか?聖霊から天使、悪魔、聖人に至るまで、多くの超自然的な存在や力が、様々な宗教の中に見られる。宗教では、民間信仰や他の宗教から、偶像や物語を引き継いだり、それらを敵として描いたりもする。例えば、宗教裁判 や、魔女の火刑、プロテスタントの迫害などを考えてみると、キリスト教徒の信仰からの逸脱は、死をもって罰せられてきた歴史がある。体制に順応しないものは全て、その統治システムにとっての脅威とみなされ、魔術や、神の冒涜と見なされ、罰せられた。宗教は、ある制度の下に組織化された信仰という構造を持ち、ルールを定め、階級が設けられ、儀式を通じ、戒律や独自の価値体系によって、共同体を作り上げるものである。それらの有効性は、人々がそれを信じ、行動様式をその宗教に沿ったものに変えた瞬間に発揮される。特に、経典に基づいた一神教においては、他の宗教からの影響を持ち込むこと、自然神話、土着的な儀式などは、認められないどころか、激しく拒絶される。一方日本における信仰は、現在では様々な仏教の宗派と神、それに土着の神々が結びついたような特徴を持つが、明治時代、仏と神を分ける神仏分離政策が進められたことがあった。しかし、それは結局人々には受け入れられず、第二次世界大戦後には廃止された。仏の世界や神の世界の多様性は、矛盾を含んだものというよりは、仏教と神道が互いに浸食し補い合うものとして認知されている。境界を設定し他を排するのではなく、その土地の神々、自然の力、そして神以前の漠然とした気配、そういったものが宗教の一部を成すのである。さらに、今世もしくは来世に与えられる恩恵としての「ご利益」が、信仰と人々を結びつける。ご利益は、自身を守護し、癒し、慰めるものであり、時に、それは人に恐れを抱かせ、恐怖や災いを反映するものにもなる。恐れは己の無力感を強め、それは同時に全能の神への信仰に繋がる。一方、ホラー映画ファンがよく知るように、恐れを感じたいという気持ちも存在する。恐怖は脆弱性が表に出たものであり、不確実性の兆候として読み取ることができる。信仰する(あらゆるものを)という行為は、どの程度まで、合理性や知識、または諦めや拒絶といったものに影響されるのだろうか。非合理的なことの中には、予測や制御できないことが多々あり、それはポジティブなものにも、ネガティブなものにもいずれにもなり得る。理性でもって、人間は、ときにポジティブな、そしてときにネガティブな結果を伴うその非合理性を、できる限りコントロールしようと試みる。

魔法が形を得るとき

「Zauberformel / 呪文」という単語の構造には、合理性と非合理性の結合が象徴的に反映されている。「Formel / 公式」は学術的な意味において、数学的、物理的、化学的な文脈や規則を短縮し、記号を使って表したものである。従って、「Formeln/ 公式」は、特定のシステムにおける公式言語の、相関関係の変換を表す。実験的物理学者が理論的予測を行動に変換して検証を行うように、例えば、公式は行為遂行的なものであると理解するならば、公式の遂行は、行動に変換される。公式によって、象徴的に記されたものは、 実際の行動を予測し、行動をコントロールすることを可能にする。それに反して、非合理性は予測できないものを代表している。「Zauber/ 魔法」とは、超自然的な影響力、物事を操る魔術的な力、自然の法則に基づかないもの、そういった説明不可能なもののことを指す。「アブラカダブラ」という呪文を図案にすると、一行ごとに文字をひとつずつ減らしてくとできあがる、幾何学的な逆三角形(注 3・Schwindeschema)となり、それは、言葉 から作り出された、非合理的なことを操るための魔法の公式となる。「アブラカダブラ」という魔法の公式は、単語を構成している要素である文字の羅列として表現される。文字数の減目によって形作られる三角形には、災厄を逃れ、病気を予防する効果が期待される。図の中で文字がひとつずつ消え、ダイアグラムが下に向かって小さくなっていくように、呪文を唱えることで病気は小さくなりやがて消えてしまうとされる。その際、呪文を唱えるという行為の遂行が何よりも重要なようだ。音声化することで、言葉が、治癒への手引きとなり、そして物事を操る公式としての力を持つの (注 4)。言葉というのは、発話行為と結びついて魔法となる公式なのである。

Sabine Winkler
翻訳小沢さかえ

注 1 「アニマルスピリット」と呼ばれる、経済や金融の場での、市場の変動に結びつくような、考慮不十分な本能的または感情的行為、あるいは群衆行動。ジョン・メイナード・ケインズは既に1936 年に、アニマルスピリットによる投機などが、経済を大きく変動させる原因となり、不況などの潜在的な危険を孕むと指摘している。ケインズの著書である『雇用、利子、お金の一般理論』において提示された概念。

注 2 ロッシ・ブライドッチ著『Posthumanismus: Leben jenseits des Menschen』 2014, Campus Verlag, Frankfurt am Main, 220ページ

注 3 Schwindeschema:最初、すべての文字が完全に書かれ、その文字の下に同じ文字が書かれるが、その際に語尾の文字を一つずつ消していく。最後の一文字になるまで繰り返され、それによって出来上がる、文字の配列による図像。

注 4 「アブラカダブラ」という言葉の語源には様々な説がある。「この言葉のようにいなくなれ」を意味するアラム語の Aura ka-Dabra を語源とする説、同じくアラム語の Abba kaDabra「私が言う通りになる」を語源とする説など、他にも多数。その単語の響が痛みを 和らげると信じられていた。 – Karl Erich Groezinger : Juediches Denken. Theologie - Philosophie – Mystik. 2 巻 : Von der mittelalterlichen Kabbala zum Hasidismus, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt 2005, 322ページ

  信仰、山、そしてプログラミングされた石

「信仰は山をも動かす」
  (マルコによる福音書第 11 章 22 節)

「だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」

(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳)

私たちが皆、朝を迎え、その日を平穏に過ごすために、そうと信じなくてはならないこと。例えば、仕事はうまくいき、周りの人々とはなんとか理解し合いながら、助け合い、問題はちゃんと片付く。例えば、皆が交通ルールをきちんと守る。例えば、テレビやラジオやあらゆるメディアが絶えずネガティブなニュースを浴びせかけてきても、私たちの世界はなんの問題もなく機能する。毎日、何かしらの酷いことがあるけれど。(もしかしたら、私たちの世界は、「ソーシャルメディアの吹き出し」の中にだけ存在し、そこで、自分の見たいものだけを見て、信じたいことだけを信じるのかもしれない。たとえそれがフェイクニュースであっても)いずれにせよ、信じるとはどういうことか、ということだ。信じる、とは、私たちの存在に関わることである。私たちの人生と、その意義をいかに構築するかに関する、日々の働きかけである。これは、希望を持ち、世界と自分を信じることから始まり、肯定することは、前に進んでいくためのエネルギーになる。心を揺り動かされるような体験は、一瞬であっても、私たちの日々の営みを照らす光になる。例えば、突然、富士山が視界に入ってくる、目の前に満開の桜の風景が広がる、荘厳な声を聴く、数学の方程式の(視覚的な)美しさに驚く、などといった。超越した、何か大きなもの。しかし、この段階では、まだ宗教の域には入っていない。私たちが、信じることを宗教的な要素と結びつけ、祈り、儀式、宗教的な祭典などを実践する段階になって初めて、信じるということが信仰となる。私たちの多元的で開かれた社会では、多くの人々によって「パッチワーク宗教」が実践されていて、その内容も、キリスト教の慣習、ヨガ、バッチフラワー、アユールヴェーダ、など、自分のためになるのなら全て良し、といった様相を呈している。人々を駆り立てるのは、異なる信仰に対する興味、モダンなライフスタイルへの憧れ、信仰による厳格な縛り付けに対する拒絶などであろうか。それはつまり、いわゆる混合主義である。「人生の喜びのための見本市」がブームとなり、自らを癒すための、レイキヒーリング、アユールヴェーダの脈診による体質判断、「治癒のためのパワーストーン」や「プログラミングされたパワーストーン」(その目的に応じて、パワーストーンに願いを込めること)によるエネルギーの調整といった、人生の助けとなり、空間や人間を癒してくれるようなものを求めて人々が集まっている。人は、曖昧で神秘性を帯びたエネルゲティーク学者の言葉を馬鹿にするが、さて自分はどうかというと、指輪、幸運のブレスレット、石でできたお守りのネックレス、鞄に入れた御守……。そこに込められた非合理的な価値によっ て、私たちはそれらの力を信じているのだ。13日の金曜日を凶兆とするような魔術的な数、人を病気にさせる邪悪な目の存在、サッカーの試合結果を予言する者(タコのパウル、残念ながら死んでしまったが)、タロット占い、占星術、死者とコンタクトを取る、親指を握って成功を祈る、などなど、もうお幸せに!さらに馬鹿馬鹿しく、もっと無邪気に、でもまあ悪用はせぬように。迷信でしかない!というのは迷信という言葉を不当におとしめているように聞こえる。実際、それは争いや対立の概念であるのだ。つまり、私たちは、自分にとって異質な他者の儀式を見て、それを迷信にとらわれているように感じてしまう。(例えばブードゥー教のことを考える。その形式が、我々からすれば奇妙だというだけで、それは、6千万人の信奉者を持つ、世間一般に認められた信仰なのだ)同時に、自然界で生き延びるために、古代から必要とされてきた魔術的な思考が、私たちの日常や宗教の中に未だ保持 されているとも言える。結婚を祈願する日本人女性は出雲大社にお参りし、聖地を巡るキリスト教の巡礼者は、聖水で自らを濡らし、頭痛を和らげるために聖人の頭蓋骨を使う。そして、ドイツ人の 60%は、天使の存在を信じている……。ジェームズ・フレイザーやクレード・レヴィ=ストロースといった有名な社会人類学者は、研究を重ね、どちらも文化的な技術であるという観点から、魔術と宗教を同一視するような結論を引き出した。魔術的な思考は兆候を探し、そこに類似や相関を見出すことで、因果関係を成立させる。
(赤い植物で赤い血を止める:ナイフで負傷した時は傷の心配より先に、その「悪い」ナイフを隠せ、というような、原因者の原則)̶̶鳥の飛行を観察することで未来を占い、その後の行動を決めようとした古代ローマの政治家たち、占星術を信じて政治を行ったアメリカ大統領̶̶魔術とは知識の前段階の形であり、それを誤りだと証明できるような証拠はない。すべては私たちのために為され、私たちはただそれに気づき、その力にすべてを委ねればいいのだ、というような感覚が常に存在する。何か大きな力を信じることは、心理的な進歩において重要であり、信じることで「悪者は私に害を加えることができない」と感じることが、ある種のセーフティーネットとなる。もし、私たちが日常生活の中で「魔術的な思考」をしていることに不意に気がついたなら、非合理性は合理性を含んでいる、と唱えると良い。私は、完全に自己充足のための予言において、幸運を意のままにするのだ、と。

アメリカの哲学者、ダニエル・デネットのような厳格な無神論者も、宗教的な信仰とは非合理なものであるが、人生には有益である、と認めている。共同体や、社会的な均衡や安定のためにも、それは有益であり、進化し成長するシステムとして、この(宗教的な)精神性が、民主主義、自治、報道の自由、学問などといった、文明的な発展を遂げるためのエンジンとなったのである。しかし、今日のところは、そのすべては私たちの脳の中の、多かれ少なかれうまくネットワーク化された 100京ものミニロボットたちによる仕事 なのだ、ということは忘れるべきかもしれない。その彼らが、苦痛、情緒、意識、などすべてを司っている。「自由意志」というものは、そもそも存在しない……。

始まりと終わりのこと:私たちは何者なの?意識とは?そもそも生命はどうやって存在するの?それに無って?死後の世界はあるの?宗教的な論証とそれを伝えるものの中には、私たちの存在についての真実やその有限性(もしくはその逆)を語ろうという試みが、一つの形式として含まれている。死とは、人間に対する、この上なく大きな挑発なのである。思うに、私たちの存在に関する真実は、宗教的な言葉によってのみ語ることができるのだろう。じゃあ、なにが、どれが真実なのか?宗教的な経験を述べるという行為が、言語上の問題に留まる限り、なにが、どれが真実なのかということは、誰にも言えないのである。もし、断定したとしても、それはすぐに無意味なものになる。ひょっとすると、つかえながら口にしたその言葉が、真実となるのかもしれないのだから。信仰とは、証明することのできない知識である。私たちは、神が存在しないということも、証明することはできない。神という存在を取り払った、ある種の人生哲学としての仏教は、この問題と無関係である。それは、自分の内と外に安らぎをもたらすような、経験を重視した宗教として(例えばヨガや瞑想のように)、言葉や思想を超えた方法で、内なる静寂を得て、自己を解放することを目的とし、今や魅力的な「流行の宗教」としてグローバルで都会的な現象にまで発展した。

残念ながら、ピンクの象や、「パスタファリアン」によって「ヌードルミサ」が行われる「空飛ぶスパゲッティーモンスター教」について書く場所がもうなくなってしまった。ひょっとして誰か、信奉者になりたい者がいないものだろうか……。

Karin Anna Ruprechter-Prenn
翻訳小沢さかえ

 

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