ワスレナグサ「私を忘れないで」

降り積もる記憶の中で、 あるいは過ぎ行く時間について

 

思い出は時間とともに変わりゆき、それにつれて私た ちも変化していく。私たちとは果たして記憶の総体の ことであり、記憶とアイデンティティは完全に一致す るのか(ジョン・ロック)1、重要なのは記憶と主観的 な意識との結び付きなのか(アンリ・ベルクソン)2、 あるいは、私たちが身を置くデジタル世界では、記 憶は徐々に情報のなかに溶けこんで行くものなのか

(ビョンチョル・ハン)3。 時代とともに、記憶媒体の技術が進歩するにつれ、記 憶すること、忘れることに対する考え方は変わってき た。デジタルの世界では、記憶はデジタル情報として 収集、保持され、もはや過去ではなく未来を意味する ものとなった。何ものも忘却を許さないというイン ターネットの特性がある一方で、記憶はますますデー タストリームの中へ溶けこんでいく。そのようなデジ タルシステムの中で、記憶は今どういった意味を持つ のか。ビョンチョル・ハンは著書『UNDINGE』の 中で「現代人は主に情報によって現実を認識するが、 それゆえに現実との直接的な接触は少なくなってい る。出来事は体験できるが、情報それ自体は体験でき るものではない。情報は、そのはかなさゆえに、経験、記憶、理解などといった、時間の積み重ねを要する認 知行為を消失させる」4 と論じている。

もし、あらゆるものが情報化し、はかなさを背景に持 つ情報のありかたこそが、現代における忘却の姿であ るならば、認知する過程や、意識し、考察することで 定義されるものとしての主体は解体されてしまう。もはや、データストリームの流れの中に、認知力を働か せるのに十分な時間は存在しないのだ。一方では、集 中力の持続時間が極端に短いために、記憶は今撮った 自撮り写真のことだけでいっぱいになり、そこから意 味がどんどん失われていく。「デジタル化によって、具 体的に触れられるものを手放し、自らの身体を手放し、 最後には現実としての世界をも手放すことになる。そして記憶するということもなくなり、思い出を追い求 める代わりにデータや情報をただ蓄積し続けるのだ」5

(ビョンチョル・ハン) 私たちは、十分な量の情報を手にしているが、それを コンテクストに当てはめることができなければ、情報 は意味をなさず、結局何も生み出さないことになる。収集したデータ資料の価値は、将来的に利用できるか

どうかにかかっていて、今すぐその価値を判断できるものではない。そのため、記憶とは、もはや過去についての言及ではなく、未来から現在に影響を及ぼす要 素となるのである。こうして、個人の、あるいは共同 体としての過去の重要性は、現在を解釈する能力と共 に低下していく。今や、直線的ではない、思索的な時 間の流れの中で、記憶の時間的な基準点となるのは、 過去ではなく未来であり、我々が誰であったかという 問題よりも、我々は誰になり得るのかということが重 要なのである。

フィリップ・K・ディックのディストピア小説『アン ドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)6 では、過去の記憶の有無が人間とレプリカントを区別する。 ここでは、過去の記憶を持たないことは、寿命が短く、限られていることと同義であり、さらに、思い出という人生の物語を持つことが、特権や生きる権利を享受 するための社会的な指標になる。しかし、レプリカントにも人工の記憶を移植することが可能であり、本物と区別がつかないほど精巧に造られた過去を持つ者も 存在する。実際の記憶と造られた記憶をどう区別する かという問題、記憶の変容というテーマは、同じくフィ リップ・K・ディックが『追憶売ります』(1966)と いう短編小説で既に扱っており、『トータル・リコー ル』というタイトルで映画化され、SF 映画の金字塔 となっている。『トータル・リコール』では、人工的な記憶を植え付けたことにより、アイデンティティに 混乱が生じ、自分が誰であったか、過去に何があった か、今の自分が誰なのかがわからなくなる。国家の介 入によって、記憶は消し去られようとし、さらには謎 の組織によって個人のアイデンティティや過去は抹殺される。偽の記憶を脳に植え付け、本当の記憶に置き換えようとするのだが、無意識の領域までは完全に消し去ることが出来ない。

このほど、カリフォルニアの生物学者らがジャンボア メフラシ(APLYSIA CALIFORNICA)の行動記憶 を別の個体に移植することに成功した。研究者らは、最大75CM にも成長する大きなアメフラシに、刺激 に対する防御反応を通常よりも長く起こすよう訓練を行い、訓練されたジャンボアメフラシは、体を触れられると約50秒にわたって収縮するようになった。その後、訓練されたジャンボアメフラシの神経細胞から特殊な神経伝達物質を取り出し、訓練を受けていない別のジャンボアメフラシに移植した。すると、訓練を

受けていない個体も、体を触られると、訓練を受けた 個体と同じ防御反応を起こすようになったのだ。ちな みに、ジャンボアメフラシと人間の神経細胞はよく似ているとされる。7

近い将来、生物間で記憶の移植が可能になるのだろう か?それは悪夢か、はたまた福音か。もし、ジャンボ アメフラシで成功したような記憶移植が人間同士でも 行われるとすれば、それは悪夢に違いない。他方で、 その技術が記憶喪失や神経疾患の治療に役立つツール になる可能性もある。ハイリスクな問題が生じるとす れば、我々がその技術を使う際のプロセスや、その目 的が明確に区別されなくなってしまった時だろう。

先駆的な啓蒙主義者であったジョン・ロックは、本当の記憶と操作された記憶は区別できないとし、記憶が 操作されればアイデンティティが操作されたも同然で あるとの見解を持っていた。ロックは、アイデンティ ティは個人の意識に基づくもので、意識があるからこ そ、自分の経験を自分のものとして認識できるのだと考えた。「このように、私たちの人格の同一性は、意識が過去の行動や思考に及ぶかぎりにおいてのみ存続する。そのときあったのは、現在と同じ自己である。つ まり、過去の行為がなされたのは、それについて反省 している現在の自己と同じ自己によってなのである」8 アンリ・ベルクソンもまた、記憶を単なる記憶装置としてではなく、人格の全てと関連するものと捉える。 ベルクソンは、記憶と主観的な意識との結び付きが何 よりも重要であるとし、人間の記憶とは深みや個性を 持ち、個人差が大きいものと考える。私たちの中にあ る、私たちであるという記憶が、無意識の領域へ押しやられて忘れ去られる、と彼は指摘する。記憶と共に、私たちは自分自身だけでなく、他人との関係性も また失ってしまうのだ。ベルクソンは、『物質と記憶』

(1896)の中で、「習慣記憶」と「純粋記憶力」を区 別し、純粋記憶力は個人の経験の履歴が自動保存され たもので、習慣記憶は反復学習に基づいて機能するものだと述べる。純粋記憶力は、優先的に直接行為へ集中し、それによって、物質的なものの記憶が曖昧にな る。ベルクソンによると、物質は記憶の対極にあるものではなく、異なる次元にはあるが、現実的な記憶の 一段階なのであるという。9 小川洋子のディストピア小説『密やかな結晶』10 では、リボン、帽子、切手、薔薇、鳥、さらには身体 の一部、そして人間までもが次々と消えていき、それ

にまつわる記憶や概念も同時に消滅してしまう。その島では、すべてのものが消滅へと向かう過程にあるのだ。その「消滅」を管理するのが、いわゆる秘密警察 という、全体主義的な統制・警察国家の執行機関であ り、島の住民を完璧にコントロールするために、人々 の記憶が確実に消えているか、「消滅」したはずのも のが残っていないか「記憶狩り」をする。しかし、中 には「消滅」の起きない人々がおり、命の危険に晒さ れながらも、主人公の知り合いの編集者など島の一部 の住人だけは、消滅してしまった物を覚えていて、思 考や感情、経験をモノに関連付けることができた。こ の小川洋子の小説のように、物質が消滅するときには、 それとともにあった記憶も一緒に消えていく。人間の 記憶をコントロールし、管理が徹底した政治体制の下 では、いかなる形の多様性も存在し得なくなるのだ。

ビョンチョル・ハンは『UNDINGE』の中で、不変 と思われた地上の秩序が、今やデジタルな秩序に取っ て代わられつつあることについてこう述べる。「デジ タルな秩序は、世界を情報化することでその実体を失 わせる。モノではなく、情報が私たちの生きる世界 を決定づけているのだ。私たちが住んでいるのは、も はや大地と空の間ではなく、GOOGLE EARTH と CLOUD の中なのだ。」11 ここでもまたモノの世界が消えつある。私たちが住むことのできる物質的な領域は、実体を持たない情報の奔流に取って代わられようとしているのだ。これは、 私たちの願望をかなえてくれる理想的な世界を、デジ タル化によって作り出すということであり、それによって元あった世界は消えてしまう、とビョンチョル・ハンは言う。彼にとってスマートフォンは、理解不能 な他者から解放され、ナルシシズムの領域を最大限に 拡張できる道具のひとつなのだ。「他者をモノと認識 して実体を無くすことで、他者は利用可能なモノにな る。それはまた、”あなた”を“それ”に変えてしまう ことでもある」12

残るのはデータと情報で、それが未来から現実を形成 していく。今や直線的ではなくなった時間は、未来か らやってくる。未来によって現在が決定され、私たち が過去とどう関わってきたかさえも、経験によらない 思弁的なものとなる。13 情報が現在を支配するよう な状況がこの先も続けば、意味を求めたり過去を思い 起こす為に割く時間はなくなるだろう。すべては機械 的な記憶(ベルクソン)となり、主観的な意識は自動

化された感情や興奮を伝える信号に置き換えられることになる。あらゆる瞬間に、すべてはデジタルで物理 的な挙動に変換され、未来を予測し、先取りして形成 するための過去のアーカイブとして、登録・保存されるのだ。このシナリオで行くと、過去と記憶は道具と 化して、未来のためのデータ資本としてのみ利用され ることになるだろう。これはもはや、今を起点にして 過去を追憶するというより、先取りして未来を形作っ ていくという話なのである。

時間の経過は、私たちの記憶の枠組を作り、記憶は私 たちの拠り所となる。記憶とは、ただの保存されたデー タではなく、それぞれの記憶に関係性を見出し、意味 を与え、それを物語、歴史、知識として再構築するこ とで初めて意味をなすのである。実体験と、バーチャ ルな世界で体験した記憶は、今後ますますその区別が 難しくなり、私たちの頭を悩ますことになるだろう。 経験に基づいた記憶は、主体の構築を担うだけではなく、それが未来の行動をも左右する。偶然も作用しな がら、そうやって未来は開かれていくのだ。

しかし、どうしても忘れたい事柄がある場合はどうし たらいいだろう。ウンベルト・エーコによれば、自然 に忘れてしまうことはできても、意図的に忘れるため の技術は存在しない。トラウマや苦痛に満ちた記憶を、 ボタン一つで消し去れたらどんなにいいだろうか。ミ シェル・ゴンドリー監督の『エターナル・サンシャイン』

(2004)では、記憶除去手術を受けることで、特定の 記憶を消すことが可能になる。主人公は、恋人とのつ らい別れを考えないですむように、記憶を操作して消してしまおうとする。それでも、潜在意識の中には記憶の信号が残っており、再度それを活性化させることはまだ可能だという。 記憶力が過剰すぎることの重荷については、ホルヘ・ ルイス・ボルヘスが『記憶の人、フネス』(1942) という短編小説の中で書いている。事故が原因で、体験したことを全て記憶する能力を身につけてしまった フネスは、何も忘れることができなくなり、最終的に 壊れていってしまう。彼の無限の記憶力は、あらゆる 全てのことを強制的に細部まで記憶することができる のだが、それぞれの記憶を関連付けて思考することはできない。まるで、機械的にクラウドに保存していくような記憶。雪のように降り積もる記憶は、デジタル 世界で雪解けの陽気に溶けてゆく。昨日の雪のように、 誰からも忘れ去られて。

 

SABINE WINKLER

訳:小沢さかえ

1. ジョン・ロック (1632-1704)『人間知性論』1689
2. アンリ・ベルクソン (1859-1941)『物質と記憶』1896
3. ビョンチョル・ハン『Undinge-UmbruechederLeb-enswelt』ベルリン 2021

4・5・11・12. philosophie Magazine 参照:ジェシン・ボーチェルトによるビョンチョル・ハンへのインタビュー“Die Welt hat sich ganz nach uns zu richten”( 世界は我々に完璧 に適合せなばならない)2022.1.19 公開 www.philomag. de/artikel/byung-chul-han-die-welt-hat-sich- ganz-nach-uns-zu-richten

6. リドリー・スコット監督作品『ブレードランナー』の原作 1982

7. philosophie Magazine 参照:Octave Larmagnac-Ma- theron, Transplantierte Erinnerungen ( 移 植 さ れ た 記 憶 ): Traum oder Alptraum?( 夢 か 悪 夢 か?)2021.11.8 公 開 , www.philomag.de/artikel/transplantierte-er- innerungen-traum-oder-alptraum

8. philosophie Magazine 参 照:Teresa Schouwink, John Lockes“Dieselbigkeit”( ジョン・ロックの「自意識」) 2021.4.21 公開 www.philomag.de/artikel/john-lock- es-dieselbigkeit

9. philosophie Magazine 参 照 : Frédéric Worms, Henri Bergson und das Gedächtnis(アンリ・ベルクソンと記憶)

10. 小川洋子『密やかな結晶』1994,“The Memory Police”と して 2019 に英訳が刊行

 

 

「思い出は一気に蘇る、」あるいは 瞬間だけで生きている人間はいない

 

思い出すということは、その前に忘れていたということ、思い出は忘却により片付けられ、置き換えられ、そし て整理されている。ダイナミックな変換ゲームだ。「あ る一つのコーナーにスポットを当てるということは、 その他のところが暗くなるということだ。」(フランシ ス・ベーコン 1561-1626) 自叙伝を見れば、一人の存在の切り取られた部分にのみ光が当てられていることがわかる。残りのほとんどの部分は自ずと闇に包まれる。切り取られたいくつか の部分は凝縮され、その凝縮作業によってフィクショ ンとなり「偽造される」。人生と人生の記憶は決して同 一のものではない。ドイツ人作家ギュンター・グラス は『玉ねぎの皮をむきながら』(2006) を書く際に玉ね ぎのメタファを掘り下げた。幾重にも重なる玉ねぎの 層に重ねて、グラスは自分の記憶の皮を剥き、そして 第 2 次世界大戦中に17 歳でナチス親衛隊になったことを告白した。恥が彼の心の痛みとなる。玉ねぎの皮 むきで涙が出るように、 この玉ねぎよりずっと有名なのはマルセル・プルースト の長編小説『失われた時を求めて』(1913-1927) の マドレーヌだろう。主人公のスワンはホタテ貝の形の お菓子を紅茶に浸して味わい始める場面。「まさにその瞬間に私は身をすくめ、私の中に広がる異質なものに縛られたかのような気がした。」この瞬間はコンブレー 村の彼の幼少期や叔母たちへの「無意図的想起」のトリガーであった、香りと味によって突如昨日のことの ように蘇った彼の過去をプルーストは幸福感として味わい、そしてそれは作品全体にも影響を及ぼすことと なる。この長編小説はそもそも 5000 ページを超える

「記憶の計り知れない構造物」であったが、プルースト効果やマドレーヌ効果と後に言われるようになる現象 を描いた作品として、(神経)心理学においても示唆に 富むものであった。香りに代表される感覚的な刺激は、とりわけ病気の人において失われた記憶への入り口と して作用する。プルーストが身をすくめたことは心理 学的にも裏付けされる:感情が働かなければ、意味の ある記憶にはならない。神経心理学は、香りが想起を 容易にするのは記憶機能が嗅覚と共に発達したからで あると説明している。

英語では MEMORYという単語一つしかないのに対して、ドイツ語では(また他の言語でも)記憶と思い出

は区別されている:海馬に蓄積された記憶、つまり脳 の保存機能と、短期記憶と長期記憶のスイッチは調節 可能かつ階級組織体系的にできている。その組織は可塑的で、ラッキーなことに私たちが生きている限り神経は修復可能である:特にトレーニングは、神経細胞 の再生に有効である。記憶はつまり、思い出すための 生物学的な条件であり、同時に個々の思い出の集合体 でもある。記憶を掘り返すということは瞬間と結びついている。思い出すということは、意識的 / 意図的で あれ無意図的であれ、(マドレーヌや寿司やバラやどこ かの場所などの)トリガーによって引き起こされる過 去を振り返る今の動作である。断片的な性格を持った 思い出が言語化されると、フィクションが混じってくる。我々は連想し、記憶の空白を自分の頭で作り出したもので、場合によっては知らない事柄を使って埋め る、我々は自分の人生から一貫したストーリーを作り出し、その延長線上で生きている:私たちはストーリー を「より良いもの」にしているのだ、疲れ果てた、ひどい旅行も時間が経てば面白い冒険に満ちたものにな り得る。生きている間中、我々は思い出を修正し続けているのだ。そして、我々はまた思い出を失うこともできるのだ。MUSASHI 遺伝子はそこに一役買ってい るかもしれない。脳科学の領域で MSI1、MSI2 と呼 ばれている忘却の遺伝子はタンパク質をシナプスや神 経細胞に送り、それらをバッサ、バッサと二刀流で有 名な宮本武蔵のごとく切っているのです。はい。

個人の記憶から、今度は「集団の記憶」(マウリス・ハ ルプワックス)に話を移そう。このフランスの社会学 者によると、共同体の「社会的枠組み」は記憶文化あるいは「集団の記憶」において重要な役割を果たしている。それぞれの集団にとってのアクチュアルなコミュ ニケーション・ルールや規範(つまり、「私たちにとっ て何が良いこと?」)は、どの思い出を大事にし、どの 思い出を除外するかを決定する。ハルプワックスは、 厳密に見れば個人の記憶などはないのだと言う。確か に個人の記憶は生物学的には個人レベルで生成されている。しかし我々が何をどのように思い出すのかは、常に社会がともに形成している「共著」なのだと。別 の言葉で言えば:我々は自らのストーリーを思い出しているが、しかし自分で選んだ条件によってではなく、 常に社会に影響を受け得る状態においてである。自分が生まれた年や国やその時代に起こったことを自由に 選べる者などいないのだから。 どの共同体、民族、国家も独自の文化を保持し、次世代に伝えることを重要視しているからこそ、文字や絵画、 歌、舞踊、演劇などのメディアを用いて共同の記憶を確 固たるものにする場所を作り、催事を行う。これは共同 体に属する全ての者が関わることができる文化的記憶で ある。(人間の死と共に終わるコミュニカティブな記憶 とは別物である。)「文化的記憶は手間のかかる長期的なプロジェクトである。それは人間が大きな時間軸で動くことを可能にする。」(アライダ・アスマン)このたゆま ぬ「文化作業」の過程で人類はアーカイブにあるような 文書や音声記録や映像、美術館にあるような絵画やオブ ジェ、図書館にあるような本を創り出し、あるいは犠牲 者や有名人のメモリアルを建立し、記憶に残るべき人物 の名前を場所に名付け、資料館を作り、学校で若い人たちに知っておくべき事柄を(あるいはそうでない事柄も) 教え、あらゆるものを修復する。我々はあらゆるものを 保存し、あるいは過去には価値があると思われていたも のを後世になって逆に破壊したり人の目に触れないとこ ろに閉じ込めたりもする:「この記念碑は撤去されるべ き!」あるいは「これらの絵画は卑猥だ、民族差別的だ、公開されるべきではない。」などと言って。多くのもの は地下で埃をかぶっている。しかしいつかまた再発見さ れるときもあるかもしれない。議論を呼んだ裁判、忘れられた女流作家、あるいは歴史的観点がもはや「上か ら」(「重要な人々」)の視点ではなく、「下から」(「普通 の人々」)の視点から書かれることもある。若い、多様性のある共同体という新しい時代精神は到来している。 周りでは、新たな論争や議論が起こっている。そして文 化的記憶の土壌に新たな動きが生まれている。我々は祝 日、慣習、死者を想起するような記憶のための行事も保 持している。そしてこのような(個人の人生の水平を超 えてゆく)アクションは集団のアイデンディティを形成 しているのである。

我々のデフォルトは忘却であり、思い出すことではない。 (日本の鉄道会社もそのことをよく知っている:「傘をお 忘れになりませんように!」世界中でこんなアナウンス

をする国が他にあるでしょうか?) もし我々が常に我々の日常生活の全てを覚えていたら、 我々は常にあらゆる種類の印象に圧倒され、頭の中は耐 えられないほどに散漫な混沌が支配するだろう。だか ら、我々は自動的に忘れ、大事なものだけを優先するよ うにできているのである。自動的で選択的な忘却によって我々の精神衛生は保たれているのである。我々はタブラ・ラーサを作り「全部テーブルから消して」新しく始めるのです。セラピーとしての忘却。あるいは精神分析によると:

思い出すこと、反復すること、最後まで遂行すること、と S. フロイト以降は言われている。自発的ではない「セラピー」をカウリスマキ監督の御伽噺のような映画「過去のない男」(2002) の主人公は経験する: とある暴力事件の後に男は記憶を全て失う。自分の名前 さえわからなくなる。男はアイデンティティを失った。 ヘルシンキの港地区に来て彼は最貧困の人たちに連帯感を持ち、福祉事業の女性に好意を持つ。テレビに公開された写真を見た役人が彼を特定する。彼の妻も名乗り出 てくる。しかし彼は妻のところには戻りたくないという。 記憶喪失によって、彼は自身の「再生」を手に入れる。

忘れたいことや忘れた方が良いことを我々は忘れない。 なぜなら、そうするには、忘れたいということを忘れなければならないからだ、失恋の痛手は命令されても消えたりはしないのだ!(哲学者ニーチェはとてもラジカルにこう言った:「消えない痛みは記憶に残るのだ」と。) 面白いことに、何か忘れたことをきっかけに何かを思い 出すこともよくある。でもそれって何だったっけ?

法律とそして社会における更なる地平にいわゆる「虚偽 記憶」(エリザベス・ロフタス)がある:偽装された思 い出や変換された記憶。ロフタスの研究は警察の尋問の 際の目撃者の記憶と法廷での証言の信憑性のなさを証明している。髪や肌の色、服装、犯人の凶器の使用方法な ど、誘導尋問に人間は操作されやすいのである。これはさらに言えば、人間の記憶に一度も経験したことのないことを挿入することができることを示しているのである。

最後に芸術について。スイスのマッツ・シュタウプの長年にわたる感動的で示唆に富むプロジェクトについて: 「あなたのおじいさん、おばあさんについてどんなことを知っていますか?」と彼は 2008 年から聞き始めた。 自分自身の記憶の空白に驚き、彼は「記憶のオフィス」を開いた。人々がそこへ訪ねてゆき 1 時間語ることが できるオフィスである。彼はその聞き取りから、サウン ド・インスタレーションを作った。

「祖父母から君へ」というモットーは他の人にインスピ レーションを与え、考察、研究するきっかけとなった。(こ こでは社会的な忘却と3世代目で大きく交代してゆく世 代間の記憶が大きなテーマとなった。)

「私の人生の最も重大な10の出来事は?」は国際的に 拡散され、書面で回答できるアクションで、2012 年 から 2015 年にかけて行われた。回答の一部は

インターネットで閲覧することができる。「私の人生における死 と誕生」は 2014 年に始まり、常に世界中のどこかから参加するふたりの参加者が、我々の最も大きな二つ の閾についてビデオ・トークで語り合う。

「21」は 1939 年から現在までの大人になる時期の記憶について表現している。マッツ・シュタウプは参加 者とのインタビューを10 分に凝縮して、3ヶ月後にもう一度同じ参加者に見せての個人の記憶と対峙させる。 そして、その様子を撮影する。フェスティバルやギャ ラリーで観客は二つのモニターでそのインタビューを 見ることができる。想起のプロセス自体がテーマとな る、緊張感に満ちた表現のメカニズムである。特に興 味深いのは、有名人ではない、演出された素晴らしい「ストーリー」の裏に隠れることができない「普通の」 人たちが、スムーズに話をすることができなかったり、しばしば言葉を探さなければならなかったりしたこと だ。

記憶の芸術家シュタウプからインスピレーションをもらって、自分に、そして他の人に聞いてみよう。その前に玉ねぎを剥いたりしないように!マドレーヌと紅 茶を用意して、、

 

KARIN RUPRECHTER-PRENN

訳:真道 杉

 

 

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