UN/GLÜCK GELUECKE

LUCK HAPPINESS CHANCE BONHEUR KOUFUKU FELICITAS AUGURI SHIAWASE
『幸せとは何か?
それは後になってわかるものである』

(アドルノ・シュタットラー、作家)

なんて素晴らしい答え!ほとんど何も言っていないようでいて、実は見事に核心をついているのではないでしょうか。幸福は「沈黙している」ものなのです……。私たちが幸福について話す時、それはもう、過ぎ去った過去になっています。幸福について何も語られない時には、どんな些細な不幸も、いかなる個人的な不幸も、そこには存在していないということなのです。そして、時間が経ったことを示す「後になって」という言葉は、幸福とは、ほんの束の間のエピソードであり、どう転んでもおかしくなかった紙一重な出来事で、何かと比べないことにはそのことに気づけないかもしれないような、ときに大きな、でもたいては些細な出来事であるということを教えてくれます。ですから、私たちは過去を思い返して、初めてそれが、幸せというものだったのだと気づくのです。幸福の只中にあって、「幸せ」という言葉が脳裏に浮かぶことは、そうあることではありません。私たちが遠慮がちにでも幸福について話す時、そこに幸福は存在していない、というパラドックスがあります(「自分は幸せだと言う者は嘘をついている」と、アドルノの意見は厳しいものです)。幸せとは言葉の外にあって、言葉では言い表せないものなのです。おそらくそれは、世界と一体化する瞬間であり、そしてその瞬間はあらゆる感覚を通して感得されるもの

で、言語化すると、たちまち陳腐なものに成り下がってしまうのではないでしょうか。結局のところ、それは私たちが容易に言葉にすることができる「世界の事実」に関する問題ではなく、倫理学や人生哲学などといった哲学の歴史に通底する、「世界に対する態度表明」(ヴィトゲンシュタイン)なのです。何か特別な瞬間に限ったことではなく、「いかにして幸せな人生を送るか」ということが、古代の哲学者にとっては人生哲学のテーマの一つでした。正直なところ、誰かが自分の幸せについて話し始めると、私たちはすぐに退屈してしまいます。さらに悪いことには、すぐさま自分と比較して、自分の方が劣っていると考え、勝手に落ち込んだりしてしまいます。そうやって誰かと自分を比較することは、キルケゴールの言葉を借りると「幸福の終わりであり、不満足の始まり」なのです。

幸せとは小鳥のようだ、そうウィーンの人々は言い、羽ばたき空を舞い、捕らえることのできない鳥の姿に、幸福を重ね合わせます。鳥が、自ら鳥かごを探して、そのなかに飛び込むなんて、あり得ないことです。刹那の幸福な経験は、いつも、後悔や、哀しみ、逃げ去ったものという一面を併せ持ち、「ああ、もう幸せな時間が過ぎ去ってしまった……」と、人は惜しむように振り返るのです。多くの人々にとって、幼少期は最も幸せな時代で、棚に飾った大切なものを愛でて楽しむように、しばしば記憶を引き出しては懐かしみます。あのころみたいに世界に直接触れるような体験をすることはもう二度とないでのしょう。「幸せ者は忘れるのさ、どうしても変えられないことなんか!」これは J.シュトラウスⅡ世の歌劇「こうもり」のなかに出てくる、非常にオーストリア人的なセリフです。これは、諦めることで不幸を避けるという一つの生きるための戦略なのです。それと似てはいますが、より積極的な態度で世界と対峙したのが、ミュンヘン出身の有名なコメディアンであったカール・ヴァレンティンです。彼は言いました「世界が今このようであることが、私はうれしい。もし私が満足していなかったとしても、世界は変わらずに、このままであるでしょう」人間という存在に関する様々な問いのなかには、その存在自体が本質的にはらむ不幸を前提としていて、それが、幸福の概念の曖昧さ、掴みどころのなさの根本にあるのではないでしょうか。夕方には転がり落ちる運命にあることを知りながら、日々、新しいシーシュポスの岩が山頂に運び上げられるのです。人生の苦難、そのなかにある無益さは、決して、私たちを不幸にしているわけではないのだとカミュは言います。むしろその反対で、シーシュポスは幸せな人間だと捉えられるべきなのだ、と。

幸せを望む/幸せを手にする、幸せになる/幸せである、理念としての幸福、あるいは思考や状態としての幸福、そういった幸福の幻影のようなものが、私たちの(西洋的な)頭を通して現実世界に現れ、幽霊のようにさまよい歩きます。それは、「生きる意味」と言われるように、幸福を希求する気持ちが、人間に生まれ持って備わっているからであり、それは、例えばアメリカ合衆国憲法おいては、「幸福を追求する権利」という形で現れています。そして「より良い人生を!」というスローガンのもとに、巨大な「幸福産業」によって無数に生み出される、幸福になるためのハウツー本、セミナー、ビデオプログラムの数々。それらは、自己最適化せよと命じながら、私たちに爆弾のように降り注ぎます(これを社会学者のエヴァ・イロウズは 2018年に出版された«Happycratie»の中で「幸運の専制政治」と述べています)。また、「国際幸福デー」(3月20日)というものが国連によってすでに制定されていることはご存知でしょうか。

ここで、ドイツでベストセラーになった、とても魅力的な副題が付いたハウツー本を見てみたいと思います。「幸福・それについて知らなければならないことのすべて、そして、それが人生において最重要ではない理由」(2007)。ウィルヘルム・シュミットは幸福を「偶然の幸福」「心地よい幸福」「豊かさの幸福」この3つに区別します。私たちの経験する幸福は、この3つの種類の幸福が組み合わさったもだというのですが、面白いのは、幸福は最も大事なものではないという考え方です。

すでに手にしている幸せというのは、複雑な要素が絡み合った偶然の結果によるものですが、単純に、どこでどのような状況のもとに私たちが生まれてきたのかということを考えると、それが分かりやすいかもしれません。生まれるべき時に、生まれるべき場所に生まれてきた、とは良く言われることで、「偶然の幸福」は人生を大きく方向付けるものとして、私たちの身に降りかかります。偶然の幸運について話す時、良いモデルになるのがグラッドストーン・ガンダー(ドナルド・ダックのいとこ)ではないでしょうか。「幸せは道路に落ちている、それを拾えばいいだけさ」と彼は言います。しかし、厳密な意味では、それは幸福の概念にはあてはまらないのです。なぜなら、常に幸せだけを手にしている人がいたとして、その手にした幸せを幸せと感じられるかどうか、そこは難しいところではないでしょうか。「心地よい幸福」(«Wellness»の概念と非常に近いもの)は、幸せの鳥をカゴに閉じ込め、幸せが約束された時間を永遠に持続させたいという、人間の享楽主義的な願望でもあります。つまり、それをフロイトの快楽原則に基づく願望の充足という観点から見た場合、その願望が叶えられない時、人は、全世界に対する不満を一気に募らせることになります。しかし、この「快楽のためのプログラム」は簡単に実行できるものではありません。なぜなら、人間は、快楽原則に支配されるままにはならず、現実世界の必要に応じて理性的に振舞い、欲望の充足を延期しようとする能力である現実原則に従おうとするからです。そうです、大人になるということは、常に痛みを伴うものなのです。もしかしたら、私たちはいつまでたっても大人になりきれず、常にその途上にあるのかもしれませんが。私たちは、欲望とうまく付き合う方法を苦労して学び、そうやって自律性を得ていくのでしょう。どこまで自己を知ることができるか、その限界と向き合うことは、とても困難で骨の折れることです。そして、人生の成功を得るためには、ネガティブな一面もまた存在すること、大事なことほど取り返しがつなかいことをきちんと認識すること、これも、とても難しいことです。最後の3つ目の幸福のかたちをシュミットは「豊かさの幸福」と呼びます。それは、最大限の幸福を主張するものではなく、また痛みを取り除くといったものでもありません。これは、幸福と不幸を両方の端に置いた、多様性の中で生きることであり、矛盾し、完全ではない世界で、あらゆるものに挑戦しながらその人生の意味を見出していく、そういう生き方のことなのです。節度を保ち、謙虚で、思慮深く、バランスをとり、反省し…… それはまさに、古代の哲学者が実践した人生哲学へと立ち返ることなのです。シュミットが試みたように、肥大化した幸福の概念を取り除くこと、それもまたひとつの確かな方法なのではないでしょうか。彼が正しかったことは、おそらくすぐに証明されることでしょう。幸福は、目的なのではなく、私たちが何かに対して努力を重ねる中で「付帯して現れる、副次的な状況」(ニーチェ)なのではないでしょうか。そう、幸せはそんなに重要視しなくてもいいものなのです。

私たちのこの「幸せ大騒動」をより良く理解するため、私たちの脳を「幸福」という観点から分析する、包括的な幸福の研究も確立されています。神経科医の報告によれば、報酬知覚と、神経伝達物質+ホルモンの混合物が合わさり、つかの間の幸福状態が作り出されるというのです。私がチョコレートを食べる時にも、そんなことが起こっているのでしょうか?きっとそうなのでしょう、もし条件が揃っているのなら。いずれにせよ、脳科学を信ずるならば、多かれ少なかれ幸福も数値化して測れるものなのです。

人間の幸福度に作用する遺伝子があるわけではなく、ものごとの認識に関するメカニズムの中核にあるものが、楽観主義者と悲観主義者を分けているのだと言います。メダルの裏表のように、楽観主義と悲観主義も表裏一体の関係にあるのかもしれません。楽観的であるほうが、より幸せに近づけることは確かでしょうが。行動学の研究者は次のように言います。「より楽観的であり、つまり、そのために幸福度が高い者は、その状態を積極的に作り出す方法を身につけている」例えば、日々良いことだけしか考えないように努め、悪いニュースは見ないようにするなどというように。さようなら、メディアの世界……。

行動経済学では、世界中から経済に関するデータを集めて分析し、さらにアンケートを取ることで、経済と個人的な幸福度がどういった関係にあるのかを調査します。こういうところから導き出された結果が、世界の幸福度ランキングなどという疑わしいものとなって、世界中でもっとも幸せな人たちはどこにいるのか、ということを私たちに教えてくれたりもするのですが。(かつて、バングラデシュが1位であるという記事を読んで驚いたことがあります。「私は今生きています。そして私の上には空が広がっています」と、路上生活を送っている女性の言葉が紹介されていました(素晴らしい答えだと思います。しかしおそらく創作された言葉でしょう。このような記事を見るにつけ、貧しい人々の現状というのは、経済学の調査や分析からは抜け落ちてしまっているのではないかと危惧してしまいます)。今、こういった、不確かな要素が多い研究領域では、例えば、幸福のかわりに「生活満足度」という表現を使うなど、より思慮分別を持った態度で調査に臨むことが求められます。法の実効性や、教育の機会の担保、住居や仕事が充分にあるかといったことが、測定可能なパラメーターとしてその指標となるのです。スカンジナビア諸国がそのランキング上位を占め、そして日本はおおよそ真ん中の順位にとどまっています。GDP(国内総生産)のかわりに国民総幸福量という尺度を取り入れたブータンにならってか、「幸福に関する委員会」を設置し、経済指標に加えて国民の満足度を測定することを考慮する国も多くなってきています。アンケート用紙が作成され、配布され、熱心な公務員たちがこの国際的基準となった幸福度を調査するべく奔走しています。そうやって導き出された結果を見てみると、公務員の70%は自らを幸せだと感じている一方で、公務員以外の国民でそう答えたのは、たった30%にすぎませんでした。国家は、個々の幸福の問題に干渉するべきではなく、すべての国民がその能力を十分に発揮できるよう、社会の枠組みや労働条件の面を整備することが大切なのではないでしょうか。

もう一度、ヴィトゲンシュタイン

彼は1916年7月6日の日記に「幸せなひとは、(…)存在の目的を果たしている」そして「生きる以外の目的は必要ではない」のだと書いています。きっと、ヴィトゲンシュタインのような人にとって、幸せの概念などまったくもって余計なものなのでしょう。私たちは、どうすれば彼のような境地に至ることができるでしょうか。彼はこうも書きます、幸福な人にとって、世界はどんどん広がりゆくものであり、不幸せな人とって、世界は無へと縮小しゆくものとなる。

すべての人々にとって、世界が広く大きいものとなりますように。

Karin Ruprechter-Prenn
[翻訳:小沢 さかえ]

 

言葉・あそび

<幸福>

幸福とは、精神の在り方、言語活動、概念のかたち
h / a / p / p / i / n / e / s / s 
文字はただのノイズ実体はなく、

心に兆すのは、不幸の影障害思考は無意味なものを積み上げる

<区別の産物>

あるものからほかのものへ、欲望の対象が移ろうとき、循環する精神の流動は、

現実と非現実を分かつ

わたしとあなたを、存在と非存在を、輪廻と涅槃を

原因と結果を、同じであることと異なっていることを、全体と部分を、

唯一であることと数多くあることを、善と悪を、受け入れることと拒むことを

私たちは苦しむ。永遠とは刹那であり、快楽とは苦痛であり、純粋なものは不純で、賢いということは無知であるということに

 

幸福と不幸の、人為的な定義が作り出した境界腺を乗り越えよう

幸福と不幸を二元論に回収することは間違っている。幸福と不幸を分かつことはできないのだから

<幸せであるため、私たちにできること>

私たちの人生は、幸福への期待の上に築かれる。けれども私たちは、肉体的にも、精神的にも苦痛を感じている。

人々が、自らの人生に意味を見出したとしても、老いや、病や、死がそれを帳消しにしてしまう

トラウマも悲劇も受け入れて、私たちは隻手の声*

を響かせるのだ。

 

<川で水を乞う>

「私は何者なのか」といった具合のたくさんの問いは、答えのでないままなのに、私たちは、ほんとうはちっとも混乱していない

私たちは、自分たちの認知の矛盾のなかに、合理的な解決策を見つけようとしている

文字の狭間を、

H→A→P→P→I→N→E→S→Sと移動しながら

私たちは、言葉なしで考えることのできる場所を創り出す

<論理的な限界>

人間は約37兆の細胞でできている

脳には1,000億個のニューロンがある

この想像を絶する私たち自身のイメージをどう扱えばいいのか

思考がさまよいだそうとするたびに、しばらくのあいだ呼吸に集中する

私たちはすべての思い違いを少しずつ捨て去る

夢のような幸せ/悪夢のような苦しみ

喜びと痛みのすべての原因を超越することで

桜の花(すべてはいつか、虹のように消え去る)

<見つめる>

空に咲く花、鏡に映る顔、霧のなかに消えゆく
富士山

無意味な二元論をすべて捨て去る方法は、禅の曖昧さが教えてくれる

Tenzin Yangchen

 

* 「隻手声あり、その声を聞け」、両手をたたくと音がするが、片手ではどんな音が鳴るか、という臨済宗の禅僧白陰の創案した公案がある。

 

Open your Eyes /

幸福へといたる道

例えば、アメリカや日本の憲法おいて、幸福というものが法的に規定されるとき、それはどのように定義されるのでしょうか。一般社会や共同体の幸福を念頭におきつつ、一方で個人の幸せを約束する、社会における幸福の概念とはこのように重層的なものです。幸福の追求とその重要性を法的に規定することは、それが社会的な規範や義務となりかねず、幸せとはこうあるべきという理想的な概念とともに、個人の社会における在り方を制限してしまう場合があります。幸せでないのは、個人に責任があるとされ、そしてその不幸は社会のお荷物と見なされるのです。能力主義の社会において、不幸であるということは、往々にして、人並みに能力を発揮できない、役に立たない者であることを意味してしまいます。世の中には、不幸に抗い、不幸から抜け出すためのハウツー本やワークショップなど、幸福になるための数多のマニュアルが用意され、人々に差し出されています。そういったものは、例え何一つ希望を見出せないような最低の状況でも、どこかに事態を変えられる可能性は潜んでいて、それを見つけることで再び幸せにならなくてはいけないと訴えかけます。英語では幸福を意味する語の中にも区別があり、«Luck»=思いがけない幸運、«Happiness»=幸福・満足、«Bliss»=無上の喜び・至福、というようにそれぞれに違ったニュアンスがあります。«Happiness»は、能動的に感じる人生の幸せであり、その根底には、やがて訪れるであろう幸福への期待や憧れがあります。幸せとは何か。人は、幸福に関するイメージや物語を作り出すことでそれを定義し、どうすればその幸福に到達できるのか、人生の目標として追い求めるべき幸福像とはどんなものなのかを常に自問します。このように、幸せとはイデオロギーとの関わりがとても大きいものなのです。

幸運を期待すること

幸せを期待することと、幸せにならなければならないという義務感との間にはどのような関係があるでしょうか。上流階級を夢見たり、仕事やプライベートが全て上手くいくことを願ったりと、幸せへの期待は、より良い生活のイメージと結びついています。幸福を定義する際に、どういった形で自己実現が果たされるのか、またどういった共同体の構成員であるのかということが、その重要な要素となることに加えて、実際に目指す幸せが現実化していく際のプロセスもまた重要になります。社会的にふさわしい振る舞いをするためのコード、おおげさにその効果をうたう自己啓発本、各種セミナー、自分探しや傷ついた自己を回復するためのワークショップなど、人々が思い描く幸福を手に入れるための方法は世の中にあふれています。仕事の効率を上げるために、仕事以外のプライベートな時間を使って心と体のメンテナンスをする人もたくさんいます。一方で、幸福度というものは変数的で、様々な影響により移ろいやすい性質を持っています。例えば、心身の健康、経済的豊かさ、社会的正義や平等さ、仕事のバランス、余暇と賃金、教育、その他さまざまな環境因子が幸福度を測るために比較、検討されます。幸福度を測ることは「幸せであれ」というポストモダニズム的な志向に沿うものですが、その結果、誰もが自分の幸せに対して責任を負わねばならないという重圧をかけることにもなりかねません。そういった志向は、例えばソーシャルメディアの場での評価システム(いいね)ひとつをとってみても、個人間の絶え間ない競争を促し、己の人生の幸福のみを追求するような、自己中心的な考え方に拍車をかけかねません。

不幸であること

幸せでなければならないという社会的抑圧が強ければ強いほど、自助努力を促す傾向はより顕著になる一方で、向精神薬やオピオイドの需要も増していきます。幸福が努力によって手に入れるものだとみなされると、不幸や鬱症状は、適応能力の無さや幸福になろうとする努力の欠如だとされてしまう恐れがあります。幸福や成功への過度な期待は、失敗を恐れさせ、過大な要求を自らに課し、最悪の場合はひきこもりや自殺を誘発することに繋がりかねません。幸福のイメージというものは、なかなか代替し難いものなのです。例えば西洋社会では、個人の幸福は自律的かつ絶対的であるという人々に共通した考え方があり、共同体としての幸福という意識は非常に薄い。一方日本では、伝統的に、幸福について考える際には、共同体との関係においてどうかということが、非常に重視されます。

幸せの表現

ある身振りや表情で、幸せであることを表現して人に伝えることが、社会的に求められる場合があります。それがある種のパフォーマンスだとしても、少々大げさに幸せであることを表現することで、周りにその幸せを伝え、共有し、幸運が現実のものであることをはっきりと示すのです。幸福につながりそうな出来事があり、それによって幸福への期待感が高まり、そして実際に幸福が訪れる。一方で幸福とは運任せなところが大きく、不安定で、どのように物事を捉えるか、主観に非常に左右されやすい一面もあります。幸せとは、まだ見ぬ未来にあるもので、それが過ぎ去ったとき、振り返ってみて、はじめて

自らが幸せだったと明らかになるものなのです。だから、私たちは幸運を引き寄せるべく、神々を敬い、運命を挑発しないように努めます。モラルに沿った行動が幸せを生むという考え方があり、また、幸せであらねばならないというモラルがあります。そのどちらもがネオリベラリズムと強く結びつきます。もし、何を成したか、何を所有しているかが主題となるのであれば、幸福とはただ物質的な価値にのみよって測られるものへと、成り下がってしまいます。何が幸福になることを諦めさせるのか。真実と幸福は互いに相容れないものなのか。もし違いがあるとすれば、本当の幸せと偽りの幸せはどう違うのか。果たして、幸せとは、欺瞞と切り離せないものなのでしょうか。

他人の幸せ

幸福になりたいと願うことは、憧れが欲望を生むという原則に基づいた、イデオロギーとマーケティング戦略に利用されます。その欲望の対象は、ハリウッド映画やテレビ、YouTubeやその他様々なメディアによって作り出され、人々がどのように行動するかのロールモデルもまた、そういったものを通して、あるときは伝統的な価値観として、あるときはフィクションの形を借りて、あるときは人々を既存の価値観から解放するものとして、提示されます。作られ、演出された画面の向こうの他人の幸せは、実際はただの実現不可能な夢に過ぎません。しかし、多種多様なチャンネルは、幸せなイメージを無数に産出するための回路となり、そこから発信される虚構の世界は、人々の行動へも影響を及ぼし、それにともなって様々なデータも影響を受けます。個人のデータは細かく詳細に分析され、インフルエンサーにより、幸福は様々な文脈において「約束」として利用されます。例えば選挙で誰に投票するかという政治的な選択や、日常的に何を買うかというごく些細な選択、人生設計を考える場においてさえも。自身を最適化せよ、人生のあらゆる局面をマーケティングせよ、自己実現を果たして幸せになれ、そして常に他者と競争して居場所を勝ち取れ、このように、様々なシーンでネオリベラリズムの「幸福の真言」が大きく響き渡るのです。テクノロジーとは自身の幸/不幸を明らかにする手段の一つであり、また同時にさらに大きな幸福を約束する手段でもあります。幸せとは何か。人とのつながりの中にあれば幸せなのか、あるいは不幸でなければ幸せなのか、それだけで満足なのか。幸福へと至るプロセス自体が人を幸せにするのか、あるいは、隣人の幸せや、価値観を共有することが人を幸せにするのか。それが幸福なものになるかどうかは別にして、人々の生活するための基盤、あるいはその前提条件を整えるのが政府の役割であり、もし政府が自身や一部のエリートの利益のみを追求するなら、他のすべての人々にとって、それは社会や環境に災厄をもたらすことになります。だからこそ、各国の政府が国民の幸せを約束するものとして進めてきた経済成長政策こそが、いま進行しつつある環境破壊の原因であるという事実を明らかにした «Friday for Future»運動が世界に与えた衝撃は大きく、経済成長が人々を幸せにするという神話は、崩壊の兆しを見せ始めたのです。

幸せの価値

様々な文化、そして創作物において、幸福とはどのくらい重要なものと位置づけられているのでしょうか。例えば、アメリカ合衆国憲法で権利として規定されているように、なぜ西洋諸国では、幸福の追求が、それほど重要視されるのでしょうか。日本国憲法でも第13条で幸福追求権について言及しており『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』とあります。この、1946年に公布された日本国憲法に見られるアメリカの影響は、アメリカンドリームの基礎を成すものの一つが、輸出品として持ち込まれたものです。1ここでは、社会的、物質的な意味で個人が自己実現を果たすということが中心に置かれており、それに対して、社会全体の幸福の追求や公共の福祉は背景に置かれています。社会主義的なものではないにしろ、日本では、自分の利害は下位に置いて、何よりも共同体を尊重するという、伝統的な考え方があり、それと個人的な自己実現の希求とが、同時に存在しているのです。

意義としての幸福

日本では、幸福を「生きがい」という言葉で言い換えることがあります。「生きがい」とは人生を賭けてやるべきことがあるという意味で、生きる喜び、そして心の充実をもたらす何かです。「生きがい」は、何かの集団に属している(集団の中で役割が与えられている)という意識や、あるいは、自己実現を果たしているという意識に基づいて得られるものなのです。精神科医の小林司は、会社や仕事と自己を同一視することの潜在的な危険性を指摘しました。彼の主張は、サラリーマンは会社と自分が家族であるような錯覚を抱き、何があっても会社や国家が自分を守ってくれ、会社や国家に属していることで、生きがいが得られていると思い込むというものです。そのため、リストラや定年退職で会社を離れる時になって初めて、それが間違いであったと気づくのです。では生きがいとは何だろうか。それまでに得た知識や人生経験に基づいて、何かを望み、それを叶えること、誰かを愛し、互いに幸福を感じること、人生の価値を総合的に考えた上で、自分が心から求めるものを実現していく、生きがいとはそういうものではないかと彼は言います。誰もが、社会から強要されずに自分の夢を生きることができるという小林司の見解は、自由の思想を中心に据えたアメリカにおける幸福観と同じ方向を向いているように思えます。近年、日本社会において、自己実現の重要性が増してきている印象があります。しかし、その流れは、集団に対する帰属意識の文脈において見ていく必要があるのではないでしょうか。社会秩序を保つことが、集団にとっての幸福であるという帰属意識には、儒教的な考え方も垣間見えます。道教の信条では、富や快楽を手放すことが幸福へと繋がるとされ、仏教では、苦難を知りそれを克服することが幸福の一つあり方であるとされます。ここでは、ものごとの因果関係に重きが置かれます。直接的であれ間接的であれ、原因があって結果がある。人間の行動が影響して、世界で様々な現象が起こるのだ、と。

お守りとトレッドミル

運命に良い影響を与えるよう、幸運を呼び寄せ、厄を避けるように、縁起物やお守りが用いられます。例えば七福神は福をもたらし災厄を避けるとして信仰されている七柱の神で、それぞれに財富、食物、長寿と言ったご利益があるとされます。現世での幸せを願う縁起物やお守りには、地域に根付く古くからの信仰に、時代に沿った新たな解釈を加えたものが多く見られます。だるまは、2縁起物として広く親しまれており、祈願のために左目に黒目を描き入れ、成就すると右にも黒目を入れます。この「開眼」は仏教で、智慧の眼を開くことを意味します。3悟りの過程や、原因と結果を認識すること、それによって生じる変化、それらすべてが幸福へ繋がる道となるのです。祈願成就の後、だるまは寺院に納められ、焚き上げ供養され役目を終えます。

「ヘドニック・トレッドミル(快楽のウォーキングマシン)理論」4では、それがポジティブなことであれ、ネガティブなことであれ、人生の中で大きな出来事が起こっても、一定の期間をおけばその状態にも慣れ、幸福度はその出来事の起こる前に戻る、と「幸福の追求」はそのように定義されています。どれほど必死に追い求めても、幸福度が変わることは無いというものです。このヘドニック・トレッドミル

理論は、なぜ富や収入の増加が人々に期待以上の幸福をもたらさないのかという«Easterlin-Paradox»を説明しています。このトレッドミル(ウォーキングマシン)のメタファーは、シーシュポスの神話、中でもシーシュポスに課せられた罰を想起させるものではないでしょうか。シーシュポスは巨大な岩を山頂まで上げるように命じられますが、あと少しで山頂に届くところまで岩を押し上げると、岩はその重みで転がり落ちてしまいます。シーシュポスは再び山の麓から岩を運びあげますが、あと少しのところで岩は転げ落ち、その苦行は永遠に繰り返されるのです。アルベール・カミュはこのギリシア神話に仮託して、その根本思想である「不条理の哲学」を論理的に展開追求した随筆を「シーシュポスの神話」(1942)として発表し、そこで不条理と幸福についての新たな解釈を示しました。日々単調にくり返される仕事や、達成できそうもない目標、幸福を追い求める、その最中にこそ幸せがあるのだと。

Sabine Winkler
翻訳:小沢 さかえ]

[1] これはまた、韓国、ハイチ、ナミビアの憲法にも規定されている。2008年に制定されたブータンの憲法には「国民総幸福」の追求が規定されている。

[2] だるまの姿は中国禅宗の開祖でインド人仏教僧である菩提達磨が

モデルになっている。(名前もそこから)

[3] 一念三千:日蓮があらわした「開目抄」という御書のなかにこうある「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の矢、一つを

脱れたり。然りといえども未だ発迹顕本せざれば、実の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし、根なし草の波の上に浮べるに似たり。本門に至って始成正覚を破れば四教

の果を破る、四教の果を破れば四教の因破れぬ。爾前、迹門の十界の因果を打ち破って、本門十界の因果を説きあらわす。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備って、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

[4] Sacha Molitorisz, Happiness is a marathon, not a sprint: 1990年代、英国の心理学者Michael Eysenckは、幸福の追求をウォーキングマシン(トレッドミル)に乗った人に例える快楽の

トレッドミル理論を提唱した。2010.10.9

_web.archive.org/web/20101012160913/http://www.smh.com.au/opinion/society-and-culture/happiness-is-a-marathon-not-a-sprint-20101008-16bwe.html

 

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