Half But Big ––––––––––– なシャツ

または如何にして半分から完全なものを作るか

シャツの長い歴史は、その試みの歴史である:

繊維製品の原型であるシャツの歴史は数千年にも及びます。シャツ(Hemd)はドイツ語の«hemidi / hemedi»に由来する言葉で、もともとの意味としては「肌・皮」や「覆い・カバー」を表すものでした。大昔、人々は布を身体に直接まとっていましたが、それはほとんど裸同然で、外出に適したものではありませんでした。そのシンプルな形は今も寝間着として残っていて、東洋の国々には、明るい色合いの、地面に届くほどの長さの布をシャツの形に仕立て、男性の外出着とするところもあります。そういうものが男性用アウターとして変化に富む進歩を遂げ、シンプルなシャツが男性をよりセクシーに見せるといった女性からの視線も意識しながら、ユニセックスな雰囲気を兼ね備えたシャツドレスは、ワードローブの古典となりました。

シャツの戯れ:

男性がボタンを外してシャツの上部を大きく開けると、それまで布に覆われていたところには胸の毛が現れ、ずっしりとした首飾りがキラキラと光を放ちます。そして全開になったシャツは、風にはためきなびくただの布同然になってなお、男性の隆々たる上半身を引き立てるのでした……。一方女性たちには、自らのデコルテの美しさに対して、打算がありました/あります。彼女たちはまた、シャツの裾を引き寄せて胸の下で結び、お腹を見せるために布の分量を減らしました(襟にも様々な種類があり、例えばスタンドカラーにも理由があります。袖口の仕様、色、模様……本当に様々です)。シャツの布は、垂直方向あるいは水平方向のいずれかの裁ち方で、半分にしやすい性質があります。つまり、開け閉めする必要のあるシャツは、自ずと裁断面にそって開け閉めされるのです。

半分:

丁寧に作られたシャツの半分は、それ自体が一つの製品となり得るアーティファクト(人の手によって作られたもの)で、強い存在感のあるものです。その強いメッセージ性は完成した製品と同等の存在を示し、半分であるにもかかわらず、完全であると言えます。これがシャツの象徴となり、強い印象を与えるのは、半分であっても、襟、前身頃、後ろ身頃などシャツの全ての特徴を有し、部分からまだ見ぬ全体を想像することができるからでしょう。その半分は、それだけでシャツの独自性を体現していると同時に、あらゆる可能性へ開かれたものでもあるのです。

アーティファクトから衣服へ:

半分とは、社会的な分かち合いを意味するものではなく「半分どうぞ、もう半分を私がもらいます」という意味での「半分にする」です。ましてや素人仕事で適当なことをしたり、何かを途中で投げ出すという意味での「半分だけする」という意味でもありません。理論的そして実際的に重要なことは、半分のシャツを生み出すために、一枚の完全なシャツを解体・展開していくことで、別の何かを完成させることが可能になるという点です。その意味では、何かからの分離が、他の新たなものの可能性に繋がるということになり得るのです。結局のところエネルギーは、いつも不調和で、非全体で、不完全なものの側にあるのです。

HALF BUT BIG:

半分のシャツは大きすぎるほどにまで大きくなり、この拡張された素材としての物質は、あらゆる方法で身体に添い、ドレープや結び目を作りながら様々な形をとります。その面白いシルエット、可塑性、立体感が、どれほど自由自在に個性的で新しい形を生み出すことでしょうか。元はただ普通のシャツの一部分であったものが「動き出し」、襟であった部分はストラップに、巨大な袖口はドレスやスカートの裾に変わる……そして、非対称的な形が意図的に作り出され、様々な色使いで、芸術的な彩色が施されるのです。そうやって新たな組み合わせが生まれ、それが無数の可能性を作り出します。ハイブリッドなシャツ、掛け合わされたものとして。結果、衣服としてのシャツが持つ伝統的な調和や統一性は破壊され、再び別の新しいものが姿を現します。自らが作り出した変種として。身に纏うことができて、同時にポリティカルな衣服として。

最後に私たちは「王様とルバーシカ」というお話に辿り着きます。このトルストイの童話の中では、王様がようやく見つけた幸せ者はそもそもシャツを持っておらず、着る者が幸せになれるシャツなど、この世に存在しないのだと描かれます。

あるいは、ペーター・ハントケがかつて提唱していた「古いシャツの日」を人々にまた呼びかけてみましょうか。その日は、皆さん持っている中で一番古いシャツを着て来て下さい。つぎはぎだらけの「掛け合わされたシャツ」なら尚のこと良しです。

Karin Ruprechter-Prenn
[ドイツ語から翻訳 : 小沢さかえ]

 

余波

Half But Big But Oversize

何かを半分にする。ふたつに分けたそれぞれから、新しい物を作る。そのとき何が起こるか。肝心なのは、対象物となる素材や生地そのものをどう扱うか、素材を組み合わせ再利用することでどんな新しい(ハイブリッドな)形が得られるか、それを見極めることである。エドウィナ・ホールは «Half But Big» と名付け展開したプロジェクトで、基本となる素材の「シャツ」をパーツごとに分割し再構成することで、シャツを構成するパーツの関係に新たな可能性を見出した。素材と機能、過去と現在、衣服と身体、そのそれぞれの関係を分析するためには、まず既存のカテゴリーを取り払う必要がある。一枚のシャツが単なる布の覆いに変わり、それにドレープが付くことで、身体との相互作用によって様々な機能を持った変幻自在な形が生まれる。そうしてシャツとしての明確な定義を手放すかわりに、あらゆる用途にかなう可能性を手に入れる。«HBB» の名前のもとに制作されるものは全て、シャツが基本となり、例えば胸部の布が襟になるなどして、そのパーツに新たな役割が与えられる。«Half But Big» が生み出すのは、身体の輪郭をぴったりなぞるような服ではなく、着る人が、自由にどういった形をとるかを決めることができる余白と可能性を持っている。

「半分にする」ということは、服の構造を分析し、いったん解体したものを再構築することで、その服が作られる過程を可視化し、その上でそれぞれのパーツに新たな役割を与えるための重要な手段である。そのようにして、ひとつひとつのデザイン様式がどのような伝統あるいは文化の影響のもとで形作られたのかを研究し、オーバーサイズという「大きさ」で、エドウィナ・ホールは既存の体系を壊しにかかるのである。«Half But Big» な服は、ひとつの定まった形をとるのではなく、「過程」であり「運動」であるという意味で、文化的、歴史的、社会的な発展を示唆し、そこに生じる矛盾をも反映させることで、「着るという行為」の持つ可能性を私たちに示すのである。

エドウィナ・ホールによって、1998年に «Half But Big» の名の下生み出されたハイブリッドな衣服は、そこからさらに派生した、2000年から2007年にかけて制作された «Half But Big Bastard» のラインも含めて、変遷の過程そのものがコンセプトを体現しており、新しいモデルは常に、その移り変わりが今にいたった過程をも内包する。そうやって「交雑させる」1

ことは、体系化やそれに伴う除外のメカニズムに疑問を投げかけることにもなる。形、デザイン、カテゴリー、それら全てがいったん混ぜ合わされ、着用者の身体に合わせて再構築されることで、既存の属性が削ぎ落とされ、ハイブリッドな形として生まれ変わり、新たな価値を得るのである。最新の «HBB-Bastard» のアイテムは、既存のデザインを素材として取り上げるだけでなく、それをさらに展開させていく可能性を示すものでもある。アイデアは、どういう場合に展開し、それが新たな形を得て再び利用可能なものとなるのか、そして過去のアイデアが新しい物を生み出す過程において再び生かされるのは、どういう文脈においてなのか。

アイデア – それが後にどう影響するか

ファッションの歴史を見てみると、流行やスタイルといったものが、いかに既存のものの焼き直しであるかがよくわかる。これには社会の発展や、それに伴って起こる現象などが大きく関わってくるが、多くの場合、過去に既になされた問題提起を今に置き換え、現在起こっている出来事に対応させた結果である。物事の見方は、時間を経ることで変化する。時間を置くことで、当時人々が見ていたものが幻想だったとわかる場合もあれば、それが宿命だったとわかることもあるように、ひとつの出来事に対しても見方は変化するものである。デザインとはどのような過程を経て展開し、移り変わっていくものだろうか。

例えばデザイン案を新しく考えるときに、元のアイデアは新たなアイデアにどう影響するのか、デザインのひとつひとつを決定していくのは誰なのか、あるいは何なのか。そこでは、その時々の「時代精神」や、時事的な問題提起が重要であることは明らかである。つまり、デザインとは社会の変化の表れであり、本質としてユートピア的またはディストピア的であるデザインは、それ自体が社会の一部となって社会が発展していくプロセスに加担するのである。

回顧する

個人のあるいは社会のこれまでの歩みがどういうものであったか、その発展の歴史を新たな観点から検証する機会は、後に何度も訪れる。実現したアイデアが実際にどういう結果をもたらしたか、それがわかるまでに10年の年月が必要な場合も珍しいことではない。例えば近代を考えてみたとき、そこに含まれる数々の矛盾は、歴史的な観点から見た時に初めて明らかになる。技術の進歩を求め、国民全てに平等に良い生活を約束する社会のイメージが、実際には最も合理的な独裁のシステムに適合するものであったように(ファシズム)。例えば、バウハウスがそのコンセプトを具体化していった際に見られたように、アイデアの矛盾はデザインの中にも存在する。バウハウス2のデザインは、都市と個人のプライベートな空間をいかに社会というものに関連付け得るかなど、その設計の思想は社会全体の概念をも包括したもので、その構想を実現していく住宅建築は、未来への展望を示唆すると同時に近代が構想してきたあらゆる仕組みの失敗を建築という形で明らかにするものでもあった。その後、持続可能な社会のあり方を議論する場において、工業化と資本主義がどれほどの規模で地球を破壊してきたかが再び明らかになる。進歩主義と搾取のメカニズムでさえ、近代においては未来を約束するものとして、いかに正当化されてきたのか、Friday for future の運動はそれに対する真っ当な抗議に他ならない。

アイデアや出来事は、後に、少し距離を置いた立ち位置から、社会や個人の進歩により新たに定義し直された基準でもって、その当時とは違った評価を受けることがある。仮説に基づいた相関関係を重視する時代においては、因果関係というものが新たな意味を持つように思われる。特に、まだ海のものとも山のものともつかぬテクノロジーの効果を判断する場合のことなどを考えると。それが行きすぎると、根拠がなければ何をやってもよいということになりかねず、またそれだけでは、新たな意味や観点がどういった質をもち、どんな真実性を帯びるかについては十分に言い表せないように思う。個々の行動や地球規模の発展がどのような結果につながるか、それをどう見通すのかは、今後ますます重要になってくるはずである。そのためには、仮説に基づいた未来予測をはじめとして、あらゆる方法をその都度実験的に選択していくことが必要になる。

«HBB»の衣服の歩みは、発展・展開の可能性を持つアイデア、そして素材そのものを重要視するという立場を貫くもので、その耐久性や使用期間は誇大広告のために計測されたものではない。エドウィナ・ホールの作るオーバーサイズモデルの衣服は、仮説に基づいた考察の「サイズ」を表し、固定化された知覚・認識のあり方に疑問を呈し、マーケティング重視のビジネスモデル、その行き過ぎた成長戦略の誤りを論証するものである。

Sabine WInkler
[ドイツ語から翻訳 : 小沢さかえ]

 

[1] 雑種化すること。ハイブリッド化することの古い表現。

[2] バウハウスは1919年にWalter Gropiusにより美術学校としてワイマールに創立された。ワイマール共和国の成立と時代を同じくし、存続期間は1919年から1933年の14年間、無駄な装飾を廃して合理性を追求するモダニズムの源流となった教育機関であり、その活動はあらゆる美術表現や建築の先駆者として世界中に影響を与えた。「建築と芸術は社会政策のための道具としてのみ存在するのではなく、全ての始まりの基礎としてあるのである。新たな社会はその中から生まれ得るもので、戦後の窮乏や資本主義によって生じた亀裂を克服し、新たな構想の元に作られる理想都市を我々の共同体とするのである」https://bauhaus100.uni-weimar.de/de/geschichte/

 

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